原文のリズムをうまくつかむ

質問者C 先程リズムの話が出てきたんですけれども、そうすると村上さんは翻訳とかをやることによって、音楽をやっているという部分がかなりあるんですか。
村上 うん。僕の文章形成システムはかなり音楽的なんですよね。だから、リズムがない文章というのは読めないんです。人の文章を読んでも、リズムのない文章ってまずだめですね。同じところをいつまでもぐるぐる読んでいたりする。だから翻訳をするときには、何はともあれ原文のリズムをうまく日本語に移し換えるということを意識します。、
質問者C 自分の小説を書くときでもそれは一緒なんてすか。小説でも、自分の好きな音楽をやっているということと一緒なんてすか。
村上 そうですね。書くときはやはり音楽的に書きますね。だから、コンピュータになってすごく楽になった。キーボードでリズムがとれるから。
質問者C 実際に後ろで音楽は嗚っているんですか。
村上 翻訳をやっているときは、だいたい聴いています。小説を書いているときにはまず音楽は聴かないし、後ろで鴾っていても実際には何も聴いてないですね。知らないうちにCDが終わっていて、二時間たっていたなんてこともあります。
質問者D 最近お訳しになったマイケルーギルモアの『心臓を貫かれて』なんかだと、モルモン教の歴史が出てきたり、翻訳していくうえでいろんな調べ事があると思うんですけれども、そういうのはお好きですか。
村上 正直言ってそういうのあまり好きじゃないんですよね。だから、わからないことがある場合は、編集者の人に資料を集めてもらうことが多いです。でもこれはプロだからできるんで、最初は自分で何もかちゃらなくちゃいけない。
 ただこの本に関して言えば、僕はユタに行っていちおう取材みたいなことをやっていますけれども、実際の場所に行ってみるというのはけっこう大事なことです。だからこの本に出てくる場所は、だいたい自分で回ったんです。調べるというのはすごく時間がかかって大変だけど、でも、やる価値はあると思います。どれだけ自分がそれにコミットできるかという度合いになってくるから。
柴田 コミットの仕方ということで言えば、『心臓を貫かれて』はちょっと特別ではないですか。
村上 特別ですよね。ただ、著者には会わなかったけどね。あの本を読んじゃうとちょっと会いづらいところもあるし。しかし一般論として言いまして、著者に会うのは非常にいいことですよね。ぜひお勧めします。翻訳をやっているんですがと言って訪ねて行くと、わりに気楽に会ってくれることが多いんですよ。突然知らない人が来てもまずだめだけど、「実はあなたの作品を日本語に翻訳しているんですけど、会えませんか」と問い合わせると、意外に気持ちよく会ってくれます。逆の立場として、僕もよく会いますよ。たとえば今ポーランド語に翻訳しているんだけどと言って、ポーランドの人が来たり、あるいはイスラエルの人が来たり、ノルウェーの人が来たり、そういう場合断ることってまずないです。どんなに忙しくても、会って話をします。まあ僕自身が翻訳者だからということもありますが、でもそれだけじゃないです。 それから、たとえばレイモンド・カーヴァーは僕が一回アメリカに会いに行って、一九八四年に会って話したんですけど、そのあとちょっとして、若くして亡くなってしまった。もちろん死んでしまってからは会えないですから、今生きている作家には機会があればなるべく会っておいたほうがいいと思いますね。必ず役に立つから。ジョン・アーヴィングに会っているし、レイモンドーカーヴァーに会ったでしょ、それからティ人ーオブライェン、グレイスーペイリー。
柴田 マイケルーギルモアに会う気がしなかったというのは、どうしてですか。
村上 この本を訳していると、会うのがつらくなってくるんです。本人がどんなにっらい気持ちで生きてきたか、切々とわかるから、顔を合わせて、何を聞いていいかちょっとわからないですよ。そのぶん、僕もこの本にのめりこんで訳したということなんだろうけど、僕としてはむしろ作者とのあいだに距離を置いておきたいみたいなところがあって……
 それから僕が今年訳した『さよならバードランド』の著者である、ビルークロウというジャズーミュージシャンがいるんですが、その人の家に行って、いろいろ話をしました。あれは楽しかったな。庭でビールを飲みながら、ジャズの話を三時開か四時開か、ずっとやってました。あとフィッツジェラルドの子孫、孫とかそういう人にも会って話をしたことがあります。家の壁じゆうにゼルダの絵が飾ってあって、すごいなあと思った。翻訳をするというのはもちろん書斎の作業なんだけれど、それに並行して、外に出て実際のものに触れる、人に会うというのは人きい意味を持つことだと思います。それは僕が経験から言えることですね。
質問者E 村上さんの本は英語にも訳されていますが、以前ソウルで、ちょうど八重洲ブックセンターみたいな本屋へ行ったときに、そこに村上さんの本の韓国語訳が平積みで置いてあったんです。日本の書店と同じように、今月のベストテンみたいな感じで、そのなかで十番以内に村上さんの本が人っているんです。
 それで、たとえば英訳については、村上さん自身が翻訳されたものを自分で読むことができるわけですが、でもいまお話しした韓国語の訳であるとか、あるいはポーランド語の訳の場合では、おそらく自分で内容を確認することができないですよね。それは、自分の知らないところで子供ができてしまうみたいな感じじゃないかと思うんですが(笑)。それについてはいかがですか。
村上 そうですね。たとえば韓国語だったら韓国の人に知り合いがいれば、「訳文はどうだった?」と聞くことはできますよね。「よかったよ」と言われれば安心するし。それ以上のことは実際にはできないですけれど。でもいろんな国で訳されているというのは不思議な気持ちがしますよね、本当に。
柴田 基本的には嬉しいですか。
村上 それはもちろん嬉しいですよ。だから、たとえば「フィンランド語に訳すんだけど、序をくれないか」と言われたときに、なるべく忙しくても書くようにしているんですよね。
柴田 フィンランドの読者に向けてですね。
村上 そういうことも、できればやっていきたいと思います。

『翻訳夜話』 村上春樹