サクシニルコリンを用いた殺人
サクシニルコリンは作用が速く短い薬で、静脈に注射して40秒で作用が現れ、5分で作用が切れます。サクシニルコリンは、コリンとサクシニル酸(コハク酸)二つとが結合したもので、化学的にはサクシニル-ディ-コリンです。ここでディというのは「二つ」という意味で、コリン分子が二つあることを表します。酸とアルコールが結合した物質をエステルといいますが、サクシニルコリンもエステルで、コリンがアルコールの一種です。
コハク酸は二価の酸つまり「COOH」を二つ持っている酸で、サクシニルコリンはコハク酸一分子にコリンに分子が結合した物質です。そうして、血液中にはこのサクシニル-ディ-コリンを分化する強力な酵素コリンエステラーゼがあるので作用が短いのです。この点もサクシニルコリンの変わったところで、薬はふつう肝臓で分解されるか腎臓から排泄されるのが通例で、サクシニルコリンのように血液で直接分解される薬は珍しい例です。
ここまで学んだ人は、「サクシニルコリンで殺人を犯したらわからないはずだ」と考えます。分解酵素の作用は被害者が死んでも継続しますし、最終分解産物のコハク酸もコリンも本来体の中にある物質で、サクシニルコリンからできたか判明できません。そういう推理小説を書いたら、といったりもします。この点は、サクシニルコリンを学んだ学生や研修医が、現在でもすぐに示す反応だそうです。
1970年ごろに、アメリカのフロリダ州でこれを実行した医師がいます。婦人だか愛人だかにサクシニルコリンを注射して、証拠の残らない殺人を謀りました。しかし彼の期待に反して、サクシニルコリン注射の証拠が残りました。サクシニルコリンはコハク酸と二つのコリンとに分解する前の段階で、コリンが一つだけ取れてサクシニル-モノ-コリンという物質になります。「モノ」というのは「一つ」ということで、コリンが一つとコハクが結合した物質を指します。このサクシニルモノコリンには筋弛緩作用はほとんどありません。しかしサクシニルモノコリンは天然には存在しない物質で、これがあればサクシニルコリンから壊れたと結論できます。状況からサクシニルコリン使用が疑われたので、探してみると脳の組織から微量のサクシニルモノコリンが検出されました。血液中ではサクシニルモノコリンもさらにコハク酸とコリンに分解しますが、脳組織ではこの変化が遅いようで、医学の専門家はこの点を知っていたようです。生半可な知識を犯罪に利用して失敗した例ですが、でも状況をきわめてうまく工夫すれば成功したかもしれません。ミステリーで実験してみませんか。
ずっとあとの1994年に、日本でもサクシニルコリンを用いた犯罪が実行されています。こちらは、サクシニルコリン入手の経路などから判明しました。