“英語学習ブーム”に異議あり
ピーターは英語、ドイツ、フランス語、韓国語、中国語、日本語にいたるまで12ヶ国語を操るという語学の天才である。彼が「日本の“英語学習ブーム”に異議あり」という題で講演をするというので、英語教育に関心のある人たちが挙って押し寄せた。
「僕の書いた「英語習得法」の本は売れませんでした」と笑いをとって、「1本語でピーターの話が始まった。
「ぽくの計算では、日本人が海外で過ごす日数は、たった70日。英語圏でない国も含めてですよ。たった70日のために、なぜそこまで英語を話したがるのでしょう。日本人は日本語をしゃべっていればいいのです。もっと日本人としての誇り、自尊心を持つべきです。日本の総理大臣が流暢に英語ができたとしても、アメリカの大統領と英語で話すべきではありません。翻訳や通訳を通せばいいのです。英語なんか、強い動機や必要がある時に勉強すればいいのです。
英語の第2公用語? とんでもない。国中が日本語で通じるじゃありませんか。
小学校でも英語を教え始めているというじゃありませんか。なぜ小学校の英語教育に反対か。ほかの科目に悪影響を与えるからです。 2002年から小中学校は週休2日になって、授業時間が全体として減る。そんな環境で英語を増やせば、国語や数学、理科などの時間が減ります。
これからは数学がますます必要になります。あやしい金融商品がどんどん出てきます。数学に強い人が生き残る社会になるのです。数字を正しく読む勉強が必要なのです。“身近な英単語”を丸暗記して何になるのですか。」
100人近く集まった聴衆のほとんどが、なるほどと思っている。「その通りだ。」「日本人はもっと誇りをもつべきなんだ」という囁きが、さざ波のように広がった。誰も質問も、反論もしない。
その時、30代半ばの男性が立ち上った。「連続質問をしてもいいでしょうか。」
「いいですよ。だれも他に質問がないのですから。」
どうせ日本人は質問なんかできない、と言わんばかりだ。
「要するに、日本人にとり、英語を話すより数学の勉強の方が大切ということですね。」
「そうです。」
「ところで、あなたがお書きになった本の内容は?」
「英語の学び方。J I
「数学の勧めではないですね。どうして、英語の本を?」
「……。」
「つまり、あなたの本を読めば読むほど数学や国語に費やすべき時間が奪われることになりますね。あなたのロジックによれば。」
「……。」
「あなたは、10何ヶ国語ペラペラ、そして日本でも成功されている。日本人は、日本語だけでよいとおっしゃる。その根拠は?」
主催者は、ゲストに向ってなんと無礼なヤツだろうとイライラし始めた。演壇で少し衍まで顔をこわばらせていたピーターだけが、表情に微笑みを取り戻し始めていた。
「あなたのお名前は? きっと数学に強い人でしょう。こんなに論理的な質問をされた「1本人は初めてです。数学の技を使っておられる。」
「いやディベートの技です。私の名前は宮本速蔵。塾の経営を片手間にしているビジネスマンです。」
「あの、ぼくが愛読していた、宮本武蔵の宮本?」
「そうです。官本武職は私の心の師匠(mentor)です。で、私の質川に対する答は?」
タク先生は、隣に座っているマタとヨシの肘を突つき、「あれが宮本だ」と小声で教えた。
「私は、日本人に英語が必要でないとは一言も言っていない。いいですか。自信を失っている今の日本人に必要なのは自尊心なのです。」
「ちょっと待って下さい。語学コンプレックスを持つ日本人が、一番身近かである英語すらあきらめたら……いったい、どのような自信がもてるのでしょうか。」
「日本は日本語だけで通じるじゃないですか?」
「じゃ、10何ヶ国もペラペラであるあなたの言うことを聞く必要がないということですか?」
その時、先程からイライラしていた司会者が割り込んだ。
「他の人にも発言の機会を……。みんなの時間ですから。」
「わずか4分しゃないですか」と、手にしたストップ・ウオッチを見ながら、宮本は司会者をにらんだ。
宮本の反対尋問という見慣れぬディベート的連続質問に当惑する人、失礼な日本人だと憤怒する人……その中で一人だけ、白い歯を見せて笑っている日本人がいた。
佐々木精次郎だ。手を上げて、壇上に近づいた。
「今の宮本さんが反対尋問をされたので、簡単に私なりの意見を述べさせて頂きたい。
日本語がお上手なのには感服した。これまで、英語の公用語化には反対をしてきた私だが、本日のゲスト・スピーカーの講演を聞いて、そして宮本氏の質問を聞いて、私の意見がコロリと変った。ピーターさんには申し訳ないが、やっぱり日本人には英語教育が必要だと改めて痛感した次第である。
ピーターさんは、彼自身の英語の本を読むヒマがあったら、国語や数学に戻れ、と言う。少なくとも私にはそう聞こえた。そうすれば日本人が自尊心を取り戻せるだろうか。
それは、アベコベだ。日本人の学力は低下を続けている。せっかく英語の授業を増やし、教室での授業を活性化し、幼少の頃から国際人としてグローバル思考を身につけさせようとしている。今までになかった、前向きな政府の、そしてあせり気味のビジネス界の方針に水を差し、英語教育をスケール・ダウンさせようとはどういうことか。まさに時代錯誤の発言だ。著書では外国語を学べといい、講演では外国語を学ぶ必要がない、というのはまさにdoublestandard (ホンネとタテマエの使い分け)ではないか。教科から英語を外せば他の学科に力が入るという思考は、ゼロサム思考の域を出ていない。人生はnon-Zero-sumgameだ。That's the bottom line. (それが現実じゃないか。と、ここだけは大声で英語で話したo)いいですか、英語を外せば、トータルな学力がさらに落ちるのだ。
ここに集まっている日本人は、英語教育を真剣に考えている人たちだ。英訓教介者を愚弄することだけは、やめていただきたい。」
これで3分、さっきの宮本の質問より短いはずだ。
壇上を去った佐々木は、そのまま、区民館を背にしてどこかへ消えた。水を打ったような静けさが続いた。