翻訳の賞味期限


村上 言い換えれば、カーヴァーにとって何か正しい翻訳かというのは、僕にはもうわからなくなってるんです、はっきり言って。他のものに関しては、ある程度、選択肢というのは見えるわけ。ところが、カーヴァーに関してはまったく見えないんですよね。あまりにも深くのめり込んだせいかもしれないけれど。それが正しいのかどうか、僕にはよくわからないですね。だから、僕はカーヴァーの作品をほとんど全部訳して、全集にまでなっているわけだけど、それがどこまで引っ張れるかは、自分でもぜんぜんわからない。たとえば今から三十年後、五十年後に、カーヴァーという作家なり、彼の作品なりはまた今とは違うポジションにいるわけでしょう。それがどういうふうに読まれることになるのかは、僕にはわからないね。前にも言ったけど、翻訳というのは、賞味期限がありますよね、ある程度。そのへんの難しさですよね。
柴田 なぜか原文より賞味期限が短いんですよね、翻訳って。
村上 なぜかと言うほどのことでもなくて、ま、当然だという気はするけどね。
柴田 でも、どうして当然なんてすかね。
村上 ひとつには、それを訳しているときの日本の文化的背景というものかおり、またテキスト自身の文化的背景みたいなものもあるわけです。そういう体温の二重性みたいなものが、ある場合にはぎくしゃくした状況を作り出すことになるかもしれないですね。たとえば野崎孝さんが訳された『ライ麦畑でつかまえて』では、?沁y呂という落書きをたしか「おまんこ」って訳してあったと思うけど、今ならそのままで通用しちゃうわけだし、訳としてはそのほうがむしろ自然ですよね。もちろん一九六〇年代初めの時点ではそれ以外に訳しようがな
かったんだろうなということはよくわかるんですけど、まあそういう細かいところから、文章はだんだん古びていくのかなあと。
 あとチャンドラーの訳でもなんか無理に「太陽族」風に訳していたりするものがあって、これなんかいま読むとけっこう疲れます。たとえば「おっと、いかすじゃねえか」とかね。その時点では「生き生きした訳」ということになっていたんでしょうけど、チャンドラーとかサリンジャーみたいな新しい古典の場合には、ある程度の常識的な手当てが必要になってきますよね。たしか『夜はやさし』の中に「ツールード・フランス」がでてきて、これを「フランス旅行団」つて訳してあるんだけど、今ではそれが自転車レースであることは誰だって知ってるわけだし。
柴田 時間が経つと、原文よりその訳文の時代や文化の匂いが色濃く出ちゃうということですか。
村上 それはたしかにありますね。ただ、田中小実昌さんが訳しているチャンドラーなんかは、いま読んでもそんなに古さを感じない。そういうのを超えて機能しているように見える。不思議なんですよね。だから、僕もカーヴァーに関しては、自分のした翻訳にどれだけ蓋然性かおるのか、はっきり言ってわからないし、今はあっても、先に行ってどれくらいあるかというのはわからないですね。柴田さんはそういう賞味期限みたいなものについては考えますか。
柴田 賞味期限ですか。いや、それはもう単に願望として、古びないといいなと思うだけで、賞味期限を考えて訳文を変えるということは、まずないですね。というか、訳すときに、そんなにあれこれ操作できないですよね。昨日は千切りだったから今日はみじん切りでいこうかとか、そういうふうにはならない。結局そのときの自分にしっくりくる訳し方をするだけだから……そyつだな、しいて言えば、あまり流行語みたいなのは使わないほうがいいだろうなぐらいは思いますけど。それはべつに翻訳に限らず、文章を書くときにはいつも。
村上 だから、僕が言いたかったのは、カーヴァーというのは僕はかなりのめり込んで訳してるし、オースターに関しても柴田さんはかなりのめり込んでる。ミル(ウザーもそうかもしれないけど。それで今回、そういう「持ちネタ」を二人でお互いに交換してやったわけですけど、するとよけいにわからなくなってくる(笑)。
柴田 どういうことですか。
村上 えと、つまり、カーブアIの翻訳っていうのは僕の場合ギリギリの線で、これしかないというところで、何とかニュートラルに訳そうと思っているわけだけど、出来上がったものを比べてみると、自分で思っていたより偏見に満ちたものだなということを実感したんですよね。もちろん前にも言ったように、愛情に充ちた偏見というのはあるべきなんだけど、それとは別に……というか。
柴田 つまり、たとえば『フォークナー全集』みたいにほとんど全巻訳者が違っているようなものを、カーヴァー全集について想定してみた場合、う1ん、どうなんだろう。そこそこに力かおるというと変な言い方ですけど、それなりに見識も語学力もある人が揃って、でも一冊一冊とにかく訳者の違うカーヴァー全集かおるとして、それがどんなものになるか……ちょっと想像がっきませんね。
村上 翻訳を読んでいて困るなあと思うのはやはりチャンドラーですね。さっきも言ったけど。チャンドラーつて訳す人によってカラーがぜんぜん違うんですよ、清水(俊二)さんの訳と田中さんの訳と。同じマーロウだとは思えないところがある。
柴田 まあ全部読めば最終的には、色を全部混ぜればグレーになるみたいに、チャンドラーの本当の声はだいたいこのへんなんだろうというところに落ち着くと思うんですよ。でも、一冊一冊読んでいる最中は、なんかこれ、さっきのと違うなとか、すごくフラストレーションがたまる。個人訳のほうがやっぱり方向性は決まっているから、そういう意味でよけいなブレみたいなものは感じずに読める気持ちよさはあると思いますね。それが力-ヴァーのものなのか、それともカーヴァー・プラス・村上のものなのか、わからないじゃないかという見方もあるけど、でもたとえば僕はイタリア語とかドイツ語とかは読めないわけで、その場合、訳者が添えたプラスアルファであれ、とにかく声は定まっていたほうがいいですね。
村上 ただ、僕がカーヴァーをほとんど独占して訳していることで、カーヴァーが破壊されると り言われると、確かにそうだなという気はしなくはないんだよね。
柴田 破壊される?
村上 破壊されたというか、損なわれたというか、そういう気はしなくはないんですよね。
柴田 たとえばカーヴァーの労働者性を強調する読み方からすれば、そういうことは言えるかもしれないけど。まあそれは、言うのは簡単だからね。あるものを無視して、ないものについて文句ってのは。
村上 本当は、それぞれの作品にいくつかの訳かおるということがいちばんいいんだろうけど。
柴田 それは理想ですね。商業的に難しいでしょうけど。
村上 ヘミングウェイぐらいだとね。オースターも、まだそこまではいってないですね。
柴田 ええ。僕もオースターについては同じようなことを考えるわけで、読者が柴田訳以外のオースターを思い描きにくくなっているというのは、僕にとってぜんぜん名誉ではないです。単に申しわけないだけで。
『翻訳夜話』 村上春樹