ダイアローグの訳し方について

出席者B 『Collectors』に戻るんですけど、この「掃除機のセールスマン」ってすごく特異なキャラクターですよね。何か声がすごく大きい感じがしたんですけど、たとえばこの短篇を訳されるとき、科白を声に出して、日本語でも英語でもいいんですけど、確かめる作業を翻訳中になさいますか。
柴田 僕どうなの? 声出してる? 訳してるときに。口は動いていると思うんだよね。シバタ同居人 あ、動いていますね。でも日本語じゃなくて、英語をしゃべってるんじゃないかな。
柴田 英語でね。そうか。
同居人 あと、手が動いてます。
柴田 手が動くんだよね、そう。どういうノリかというのは、何か体で計って言葉にしてるところはあると思う。それから、うまく訳しているときって、頭使って訳してる感じがしないですからね。体を経由して言葉が出てくるって感じが感覚的にはするんです。村上さんはいかがですか。
村上 僕は絶対亘果に出さない。というのは、音声的なリアリティーと文章的な、活字的なリアリティーつてまったく違うものだから、音はあまり意味ないんですよね。芝居の台本のための文章を書いているんだったら、もちろんそれはありますけどね。口には意識的に出さない。
柴田 僕も、紙に書きつける言葉を口に出してみるということではないですね。一瞬その人になってみる、演じてみる、という感じですね。
出席者D 村上さんの言うビートというのは、文章のリズムとは違うんですか。声には出さないとしても、頭の中で読んだときの文章のリズム……
村上 それは目で見るリズムなんです。目で追ってるリズム。言葉でしゃべっているときのリズムとスピードと、目で見るときのスピードとは違うんです。だから、目でリズムを掴まないと、口に出してたら、いつまでたっても文章のリズムつて身につかないような気がする。
出席者D 頭の中で読んだり、口に出したりはしないんですか。
村上 それはあるかもしれないけど、そのへんの境目はほとんど自分ではわからないですね。目で見ながら、自分の中でそれが音になっているかどうかなんて、見分けがつかない。
柴田 僕、このごろますます感じるのは、やっぱり黙読してても呼吸はしてるんだなと思うんですよね。翻訳の授業をやっていても、ここに点を打で、全体に読点をもっと工夫しろとか、とにかくそればっかり言ってるんですよね。こないだなんか、フ」の授業では、読点は人格上の問題だ」とまで宣言した。そのへんが学生の翻訳を読んでいて、いちばん物足りない。いや、学生の翻訳だけじゃないね、世に出ている翻訳でもその点にいちばん違和感かおりますね。呼吸っていうことをちょっと軽視してるんじゃないか。
出席者D ということは村上さん、朗読会とかでは意図は伝わらないということですか。
村上 ああ、朗読会というのは、あれはひとつの余興だから、そんなに意味ないですよね。ま、うまい人はいるけどね。だから、登場人物の科白なんかは口に出してしゃべっちゃうと、何かすごく変に響くときがありますね。目で見ると普通なんだけど。で、僕は自分の小説が映画になるのが好きじゃなくてだいたい全部断ってるんですが、それは自分の書いた科白がそのまま音声になるのが耐えられないからです。
柴田 そうですね。それはかなり違ってくる。逆に、しゃべるんだったらこうしゃべるのがリアルなんだけど、字にするとおかしいというのもありますしね。音声的なリアリティーと文章的なリアリティーはもちろん違うんだけど、ただ、たとえば村上さん訳のカーヴァーと柴田訳のカーヴァーとを比べると、やっぱり村上さんのほうが、文章から声がはっきり聞こえるんですね。これは、しいて違いを言えばということなんですけども、僕はたぶん音の大小みたいなものが文章の中にあるとして、その大小の段階的差異を精密に再現することに神経を使っているんだろうと思うんです。で、村上さんの訳は、ここが大きい、ここがポイントだみたいなところをガシッと捕まえている気がするのね。だから、目に飛び込んでくる飛び込み方が違うんだろうなと思うんですね。アンプで言えば僕のは歪率の低いのが売りで、村上さんのはダイナミックレンジの大きさ。まあそれも、しいて言えばですけどね。
村上 僕は、だいたいからしてダイアローグの翻訳についてはそんなに考えないんですよね。小説でも同じですね。会話のダイアローグについてはほとんど考えてないです。とくに苦労もなく出てくる。地の文章については、小説でも翻訳でもああでもないこうでもないと考えることは多いですが、ダイアローグについてははいはいとやっていることが多いです。もちろん、ものすごく長いダイアローグは別だけど。ダイアローグに関してはわりにいいかげんなのが多いです、訳し方が。
柴田 いいかげんという感じはもちろんしないです。
村上 いや、感覚的というか、僕の翻訳の基調からすると、一段階飛んでいるところがなくはないと思うんです。でもそれはもう病みたいなもので、しょうがないような気がするな。会話ということになると、ついつい自分が出てくる場合があります。その代わり、地の文章はなるたけ飛ばないようにしようとは思うんだけど。柴田さんはどうですか、ダイアローグと地の文章との訳し方の違いというのは。
柴田 それは、訳すべき文章ということでいえば同じなので、同じことですね。地の文というのは要するに、語り手のしゃべりですよね。で、語り手に一つの声があって、登場人物一人ひとりにもそれぞれ声かおる。その人たち一人ひとりの声に一貫性をもたせるということは意識するので、それは地の文でも会話でも同じことなんてすね。とにかく僕の課題はむしろIすいません、ちょっと別の話なんてすが―地の文にしろ会話にしろ、一貫性のないのが強みの文章をどう訳すかということなんてすね。要するに、強い悪文をどう訳すか。僕がそれをやると、単に下手な、何かまとまりのないものになっちゃうので、どうしても綺麗に、ある程度まとまったものにしちゃう。

『翻訳夜話』 村上春樹