翻訳の巫女的およびミディアム的な側面

柴田 大学院では翻訳の授業はやらないので、そこはつなげてお話しできないんです。ただ、訳すことじゃなくて読むことについていえば、僕にとって、学部生でも院生でも、学生がよく読めるようになるというのは、お腹のあたりにもともと潜在しているその人のバイアスが、そのまま言葉として出てくるようになるということなんですよね。余計な紋切り型や正解に回収されてしまわずに。それまでは、客観的にはいちおう正しいといえそうな、でも大を退屈させるようなことを言ったり書いたりしていた人が、だんだん自分の、村上さんがおっしゃるような意味での「偏見」を出していくというのが、僕から見た「よく読めるようになる」ということです。それは翻訳にも通じるところがあると思います。
村上 それからやっぱりプロになって、自分のある種の文体とかスタイルを確立する段階というのがあると思うんですよ。そこまでいくには何か正しいバイアスかって、それは僕にもわからないですね。それはもうある種の文学観とか生き方とか、そういうものが関わる問題になってくるからね。
出席者D 自己表現の話がけっこういままでのフォーラムに出てきてたんですけども、村上さんのお仕事をいろいろ拝見させていただいて思うんですが、普通、自己表現と言うときには、たとえば自分が頭の中で思っていることをみんなに聞いてほしいとか、それでみんながいうことを聞いてくれたらなお嬉しいとかいう話だと思うんです。でも、たとえば河合隼雄さんとの対談で、小説を書くときには自分のなかの深い井戸に降りていくというようなお話を村上さんはしていら おっしゃいましたよね。そのレベルまで行っちゃうと、普通言われる自己表現とはまた違うんだろうと……思うんですが。
村上 それはやっぱり創作ですよね。創作についてのことだから。
出席者D 翻訳は人の魂に降りていき、小説は自分の魂に降りていく。それなら二つに本質的な差はない、とひょっとしたらお考えなのではないか、と思ったんですけれども。
村上 だからね、河合先生の話ではないけど、ユング的に言えば、翻訳のテキストというのは、一種、自分に内在するものであるということはあると思うんです。あるべきだというか。たとえば僕がカープアIの作品をテキストとして選ぶのは、自分の中にある力-ヴア1的なるものを合わせ鏡のようにして見るという意味はあると思うんですよね。。そういう意味では、あなたがおっしゃったように、自分の中に降りていくことと、テキストの深部に降りていくということとはある程度呼応していると思いますね。ユングが出てきたらお終いというところはありますが(笑)。ひとつ言えるのは、テキストの選択はとても大事だということです。
出席者D つまり、気づいたら訳文が雑になっていかねないものは、やるなということですか。
村上 やっぱり自分の中に呼応するものがないテキストというのは、疲れますよね。うまく訳せないし。だから、自分がこれだと思ったテキストを追求していけば、あれこれむずかしいことを持ち出さなくても、やっぱりそこには何かあるし、その翻訳を読む大も何かしら感じるものがあると思うんです。
 僕がカーヴァーを最初に見つけたのは、たまたまThe West Coast Fictionsというアンソロジーを読んでまして、カーヴァーのところにきたら、もうそこのページだけが光り輝いているんです。ビリビリくるのね。そのときに読んだのは”So Much Water So Close to Home、『足もとに流れる深い川』と訳したっけ。僕は読んでもう本当に綯が震えるぐらいびっくりしたんです。「これだ!」と思った。そういう出会いみたいなものがひとつないと、気持ちが通じ合うというか、呼応し合うという翻訳はできないんじゃないでしょうか。上手い下手とか、バイアスとかいう以前のこととして。で、そういうのをいくつかゴツゴツと続けていれば、自然に翻訳もうまくなるし、文章できあかってくるんじゃないかというふうに僕はすごくオプティミスティックに考えているんです。僕はカポーティも好きだけど、カポーティも高校時代、英文和訳で練習してて、例文で英文に触れて本当にビリビリ感じて、それ以来、カポーティというのは僕にとって大事な意味をもつ作家になってるし、そういう出会いみたいなのはすごく大事ですよね。柴田さん
もそれは同じじゃないですか?
柴田 そうですねえ……難しいな。う1ん、ある程度僕の中に呼応するものはあるんだろうけどなあ。たとえばスティーヴーエリクソンとかを考えると、この人みたいなパワフルなものが僕の中にあるかというと、自信ないですけどね。
村上 あるんじゃないですか。
柴田 あるのかなあ。う~ん。僕はあくまで一読者として、自分がほとんど召使というか、奴隷というか、そういうものになって、主人の声をとにかく聞いて、それを別の言語に変換するというふうに考えるので……
村上 でも、それは翻訳の一種の巫女的というか、ミディアム的というか、そういう側面ではないかなと僕は思うんです。呼応要素がなければ、そういうことは起こらないんじゃないかな。柴田さんと僕が訳した「オーギー・レンのクリスマスーストーリー」を読んでみて思ったんだけど、やはり切り取る空気がずいぶん違っているんですよね、訳しているときに切り取る風景が。視線の方向が違ってたり、組み立て方が違ってたり。だから一読者というよりは、もっと主体的に方法的にパースペクティブを選択しているわけですよね。
柴田 それはそうですね。読むときに潜在的に何となくやっていることを、訳すときは実際に言葉の次元でやりますからね。

『翻訳夜話』 村上春樹