訳者というペルソナ

村上 それと、もう一つ僕が感じるのは、翻訳をしているときには一つの仮面を被るというか、ペルソナを被るみたいなところがあって、たとえばカーブ。Iをやっていると、カーヴァーのペルソナを被るし、カポーティのときもそれなりのカポーティ的ペルソナを被っている。一種の口ールプレイングーゲームというんじゃないけど、そういう、自分の立場の置き換えみたいなのが常に行なわれていて、それは、精神治療的な見地から言っても意味のあることなんじゃないかという気がしなくはないんです。僕自身は小説家だから、自分の小説を書いてて自分というもののあり方に疲れるときがあって、そういう場合、どんどんペルソナを交換していける翻訳というのは楽なんです。
 それから翻訳をすれば、確実にそのペルソナの記憶みたいなのが、自分の中にフィードバックされていくんですよね。これはつまり、カポーティを訳してるからすぐにあんな文章を書くとかそういうことじゃなくて、何段階か通して、一回下まで行って、また上がってくるというところがあります。それは小説家の僕にとってはわりに意味を持つ部分だと思いますね。
柴田 そういうことを実感される瞬間があるわけですか。
村上 とくに実感はしないけど、「何かが起こった」という感覚が残るのかな。
柴田 訳さなくても、読んだだけでも、読んだものが沈み込んで、書くものに反映されるということはありえますよね。
村上 ありえますけど、ぜんぜんその深さが違う。翻訳というのは、極端に濃密な読書であるという言い方もできるかもしれない。でも、僕ぐらいたくさん翻訳をする作家は他にいないから、僕の言っていることにどれくらい一般性かおるのかちょっとわからないですね。
出席者A いままでのフォーラム原稿を読んで、ああ、いちばん自分と違うと感じたのは、これを訳したいと思うときに、その作家の創作に自分も関わりたいというか、そういうところが原動力になっているということを村上さんはおっしゃっていたように思うんですけれども……
村上 それを僕がいちばん強く思うのは、カポーティフィッツジェラルド。ただ、カポーティがとフィッツジェラルドの難しさというのは、すべての面でアンビギュアスなのね、文章が常に深い二重性を持っている。だからそのアンビギュイティーをどれだけ日本語に持ち込むかというのは、大変に難しい問題で、それは僕の永遠の課題みたいになってくるんですよね。
 結局、正確に訳すと原文の二倍、三倍の量になっちゃうし、それを同じくらいの量までサイズダウンしようと思うと、削っていかなくちゃいけないし、そのためには世界観のしぼり込みと文章力が必要になってくる。これはすごく難しいけれど、僕にとってはそのへんにいちばん大きな翻訳の意味がある。ただ、カーブ。Iはぜんぜん違うからね。カーヴアIというのは言語的複合性みたいなのはほとんどない、もちろんぜんぜんなくはないけど、もう少し単純ですね。単純だからむずかしいとも言えるんだけど、僕が本当に好きなのは、カポーティフィッツジェラルド。彼らの文章をどれだけうまく綺麗に訳せるかというのがやりがいのあるところです。彼らの文章から学んだことはすごく大きいですね。文章の秘密みたいなのは、やっているとやっぱりだんだん、だんだんわかってくるところがあるんですよね。ただ、だから僕がフィッツジェラルドとかカポーティみたいなああいう華麗な文体を使って自分の文章を書くかというと、それは書かないです。
出席者A でも、そういうフィ。ツジェラルドとかカポ上アイを訳したことで、もしそういうものを訳していなかったら、と考えると、小説家として書かれるものは変わったと思いますか。
村上 変わったんじゃないかな。僕は逆に、それはそれで神棚に置いておいて、自分の文章はもっとシンプルにしようというふうに思いますけどね。不思議だけど。それでシンプルの極致みたいなカーヴァーの文章から僕が何か学んだかというと、あまりそういう印象はないんですね。もちろん彼の文章、好きだけどね。でもどちらかというと、逆説的な話になるけど、カポーティとかフィ。ツジェラルドみたいな華麗な文章のほうから学んだものが多いですね。
出席者A 常にシンプルにしようと思われるんですか。
村上 よりシンプルな言葉でより深いものを書きたいというのが、僕の基本的なスタンスです。だからそういう華麗なるペルソナを翻訳者として被っちゃうと、ある程度華麗方向への欲求は解消されちゃうという部分かおるかもしれない。
柴田 なあるほど。
出席者D 村上さんがさっき、翻訳をしているとすごく楽な気持ちでいられるというふうなお話をなさったんですけど、僕はいまジョンーアーヴィングの『未亡人の一年』を訳しているんですが、何て言うか、自分上りとてつもなく能力があって、粘着力があって、何だかわからない人が、自分の頭の中に無理矢理入ってきて、頭蓋骨を力ずくで広げられるような感じがいっもしてるんですよ。
村上 やりかねない人だからね(笑)。
出席者D とんでもないことになっちゃったな、という気持ちでこの一年半ぐらい過ごしてきたんですが。
村上 たしかにあの小説とつきあうのは大変ですよね。ある部分では文章的なエゴがむき出しになってきますし。彼の最近のものはとくにそうですね。
出席者D はい。だから、翻訳は楽だというおっしゃり方もわかるんですが、同時に人の考えとか、他の大が大ってくるという大変さもあるんじゃないかなと思うんです。
柴田 でも、それは誰が大ってくるか選べるわけだからね。いやな大は入れないから。
村上 あまりそういう体験は僕はないんで、実感としてよくわからないんですけど、やはり柴田さんがおっしゃるように、相手は選ぶ必要かおるということだと思うな。合わないこともあるし、力負けすることもありますよね。べつに負けてもいいんだけど、あと味のいい負け方、あまりよくない負け方があると思う。僕はかなりテキストは選びます。
出席者E アメリカ編を村上さんが小川高義さんと、インターナショナル編を柴田さんが訳してらっしゃいますけど、あのときはお二人ともどうだったんですか。
柴田 あれは、脳がワーツと広げられる前に終わっちゃうから(笑)。
村上 『Sudden Fiction』はすごくおもしろかったですね。というのは、仮面を被ったと思ったらアッという間に脱いじゃうわけですから、すごいせわしないけどおもしろかったですね。
柴田 瞬間芸でしたね。
村上 だから、勉強になりますよね。ア。という間に雰囲気を擱んで、その空気をどういう日本語に移し換えるかということになるから、スピードがないとやっていけないですね。
柴田 僕はボルヘスとかカルヴィーノとか、英語圈以外の作家、ふだん訳すチャンスがない作家を訳せてものすごく嬉しかったですね。

『翻訳夜話』 村上春樹