トランスレイターズ・ハイ

 

村上 翻訳は、ある種、理不尽なものですね。理不尽な愛情というか、理不尽な共感というか、理不尽な入れ込み、そういうのがないと無理だと思うね。だって、長篇小説なんかだと一冊の分厚いものを、一年も二年もかけて日本語に移し換えるわけでしょう、普通の神経ではできないですよね。よっぽどつらいことが好きな人じゃない限りね。
出席者C やっぱりつらいですか。
村上 作業量だけをとっても、すごい作業量ですよね。それだけ自分の人生の時間を削ってやるわけです。翻訳者にとってもbountyみたいなものがないと、やりがいがないでしょう。
柴田 そうですけど、でも、頭の全部は使わない仕事ではありますよね。たとえば、村上さんおっしゃったけど、創作は音楽を鳴らしてできないけども、翻訳は音楽が鳴っていてもできると。僕もそうです。僕は人としゃべりながらでも翻訳できます。
村上 お釈迦様みたいですね(笑)。
柴田 シバタ太子と呼んでください(笑)。もちろん頭は使うんだけども、その使い方としては、僕にとってはものすごく楽な使い方なんてすね。
村上 でも何時間も経ったら、もう限度になっちゃいますよね。ならない?
柴田 いや、むしろやればやるほど(イになるから。
村上 そうですか。
柴田 要するに、もう疲れた、もうやりたくないというところまでやれたことがないので、少なくともこの数年は。
村上 それは違いますね、僕なんか翻訳をやろうと思って、たとえば二時間かやりますよね。そうしたら、ある程度疲れてくるんですよ。
柴田 僕、翻訳やってて疲れを最後に意識したのは一九九〇年で(笑)、その頃は今よりだいぶ暇だったんですね。だから、エリクソンの『黒い時計の旅』を訳しているときに、あんまり一日中やっていると文章がちょっと荒れちゃうかもしれないから、午後は別のことをやろうと自分で決めたんですけども、それ以降は、とにかく大学の仕事もあって、少ない時間のなかでやるので、やれるときはいくらでもやるという感じなんですよね。
村上 僕の場合はスポーツと同じなんてすね。たとえば一時間走るとか、一時間泳ぐとか、一時間スカッシュするとか、そういうのがあるわけじゃないですか。翻訳も、その一部に組み込まれている。
柴田 でも、ランナーズー(イとかないですか? トランスレイターズー(イとか(笑)。
村上 なくはないけど、わりとすぐ終わっちゃうんですよ。創作に関しては深くいっちゃう場合はありますが。
出席者C トランスレイターズー(イというつなぎで、柴田先生は、翻訳はサービス業だという考えをお持ちで、さきほどからのお話にもよく読者が出てきますが、もう一方で、翻訳は遊びであり、すごく楽しいともおっしゃっています。そうするとたとえば、読者がいないというか、本という形にはならない、なっても自分だけのための翻訳という場合でも、なさると思いますか。
柴田 やらないと思う。
出席者C その本一冊全部ではなくても、このパラグラフはとか、この数行はご自分一人のためにとか。
柴田 本質的なことを訊かれているわけですね。もし「やらない」と答えれば、「なんだ、それだったら、そんなに好きじゃないんじゃないか」ということですよね。
出席者C いや、やっぱり読者があってこその楽しみなんだな、と……
柴田 うん、読者がいないと、誰も食べてくれないのに一生懸命料理忤るみたいな空しさを感じちゃうと思う。読んでくれた大たちがおもしろかったと言ってくれるのはすごく励みになります。とにかく自分は、世の中に、とまでは言わなくとも少なくともこの大たちに対しては、害悪や不快ではなく快をばらまいたんだなと思えるのは、僕にとってすごく大きな意味があります。
村上 僕は小説を書くようになる前に、フィッツジェラルドを、別の仕事をしながら自分の趣味でこつこつと訳したんですけど、楽しかったですね。
柴田 それはべつに小説を書くための景気づけというか、助走ということではなくて?
村上 じゃなくて、ただ趣味として訳していたんです。べつに発表するつもりも予定もなくやっていたわけです。
柴田 それは誰にも見せなかった?
村上 見せない。どこかに行っちゃって、もうないですけど。

柴田 もったいない(笑)。まあとにかく、どううまくサービスするかを考えることが、僕にとっての遊びだってことになるのかな。それはだから、翻訳でも授業でも同じですね。
村上 オースターの訳を読んでて、これは柴田さんはすごく楽しんでやっているんだろうなという気はするんですよね。
柴田 それはあるんです。自分が楽しむことが、結果的に人にいちばんよく奉仕することになるというのはいつも思うんです。翻訳も、教師の仕事も、エッセイを書いたりするのも全部同じで、僕の中で、そんなつもりはなかったけど結局ある程度一貫性はあるんだなという気はするんですよね。
村上 僕が言いたいのは、自己表現的な部分は、柴田さん本人が思っているよりは強いんじゃないかということなんです。無意識的にというか、まるで自分の潜在的人格を愛するように……というと決めすぎかもしれないですが。
柴田 それは、たとえば僕が小説を書き得るというのと話はつながるんですか。
村上 直接はつながらないと思います。それはまた別の話ですよね。
柴田 つながらないですか、残念(笑)。いや、ときどき小説は書かないのかと訊かれるんですけど、ぜんぜん書けると思わないんで。
村上 いや、書けるか書けないかは僕はぜんぜんわかりませんけれど、少なくともこれらの翻訳をやっている段階においては、そういうスタイルの自己表現が非常に有効になされているし、それは柴田さん本人が思っているよりは強い効力を持ったものだと僕は感じますけどね。
出席者A それは、今回「オーギー・レンのクリスマスーストーリー」を村上さんご自身も訳されて、そして、「あ、そうか、こんなに違う」と……
村上 柴田さんの翻訳をいつも読んでいるけど、こんなふうにして読んだのは初めてだからね。やっぱり強いんだなとすごく思った。柴田さんの「翻訳的自我」とまで言ってしまうと言いすぎかもしれないけど、でもくっきりとしたものは見えてきますよね。

『翻訳夜話』 村上春樹