外国語にみられる名詞の人称変化

     金田一京助著『ユーカラの研究』の中には、著者がアイヌ集落を訪ねた時の話が具体的に書いてあるが、アイヌ人に「目はアイヌ語で何と言うか」と尋ねると、アイヌ人はすぐには答えず、「旦那の聞いているのは、おれの目か、旦那の目か、ほかの人の目か?」と問い返し、私の目ならばkushik、旦那の目ならばashik、ほかの人の目ならば、ただのをFだと答えたそうだ。

 注意すべきは最後のshikはあくまでも、ほかの人(単数)の目ということで、「私の」という言い方は、別にkukor(私が持つ)というのはあるけれども、kukor shikと言ったのでは「私のもつ彼の目」という矛盾した言い方になってしまって、「私の目」という意味にはならないのだそうだ。つまりアイヌ人の世界では、あらゆるものが、誰のものかというようにはっきり分かれていて、「私の目」と「あなたの目」「彼の目」の間には、非常に明確なちがいがあることになる。そう言われてみれば、「私の目」は針でさすと痛いが、ほかの人の目は針でさすと、当人は痛そうな顔するが、私としてはちっとも痛くない、そんなことから全然別のものだという考えがあるのであろうか。

  『ユーカラの研究』によると、「目」はさらに「われわれの目」「おまえたちの目」「彼らの目」というように変化するそうだ。こういう名詞の人称変化は、案外もっている言語が多いものだ。日本語といろいろな点で似ているトルコ語にもそれがあって。

  babam(私の父)  baban(おまえの父)

のように言い、ハンガリー語・アラブ語にもこの区別があるという。

 アメリカーインディアンの諸言語では、この区別はことにやかましいもののようで、レヴィ‥ブリュルの『未開社会の思惟』によると、北アメリカの多くの原住民の言語で「目」や「耳」という単語は、必ず「私の目」とか、「あなたの目」とか、「彼の目」とかに分かれてい て、ただ「目」とか、ただ「手」とかいう言葉はないという。それで、もし野戦病院の手術台から落ちた腕を彼らが見つけたら、彼らは「私は何人かの彼の腕を見付けた」と言うだろうという。このような言語では、たとえば「目は物を見る道具である」というのは、どう体言するのだろうかと心配になる。

  私の目は私か物を見る道具であり、あなたの目はあなたが物を見る道具であり…

というのであろうか。

      われわれが学校で英語を習うと、

I see … with my eyes. 

     というように言えと言われ、うっかりmyやyourをぬかすと叱られた。私は私の目で見るにきまってるじゃないか、誰がほかの人の目で物を見るやつがあるか、などと考えて不満だったが、ヨーロッパ人の間でも、日本人は感じていないような、一つ一つのものについて「誰の」「誰の」という未開時代の考え方が残っているのであろうか。

 日本人は、誰のものかという点にルーズな民族かもしれない。その点、勘がわるいと言葉が通じないこともある。笑い話に、自分が乗っているハシゴが倒れそうになって落ちかかった主人が、下に立っている小僧に「尻を押さえろ!・」と命令した。が、小僧が体をささえてくれないので、とうとう床に転落してしまった。見ると小僧は一生懸命になって、自分の尻を押さえていた、というのがあるが、こういう間のぬけたことは英語やアイヌ語には起こらない。