敬語は日本語だけの特色ではない


 日本語の特色という場合に、最も多くの人が話題にすることに敬語の問題がある。敬語というのは、話題に出てくる人に対する敬意、あるいは、話の相手に対する敬意を表わす言葉である。敬語は日本語だけにしかないと思っている人もあるかもしれないが、地球上の言語の中にはたくさん敬語をもっているものがある。朝鮮語の敬語は日本語と同じように複雑で、中国語・ヴェトナム語・タイ語ビルマ語にも軒並みあり、インドネシアへ行くと、ジャワ語の敬語が非常に複雑で有名だ。戦前は、ジャワ語の敬語には七つの階層があって、それをいちいち言い分けると言われたものである。それから、太平洋の島の中で、ミクロネシアのポナペ島の言語とサモア諸島の言語はやはり敬語をもっている、と崎山理か言っている。そうして広い意味に解してきわめて単純な形のものも含めるならば、ヨーロッパの諸言語にもないわけではない。

 世界の言語の中で、人称の区別のわずらわしさのないのは、東南アジアの諸言語であるが、その言語にはだいたい敬語表現があって、文法を複雑にしており、結局言語の運用を難しくしているのは偶然とは思われない。

 敬語表現の中で最も一般的なのは、人に対する呼びかけの言葉である。いわゆる敬称で、これはヨーロッパの言葉にもある。日本語で言うと、「jさま」「-さん」「-君」となるが、英語では性別により、また女性ならば、既婚・未婚によってMr. Mrs. Miss. とか言う。ただし、この敬語というのが、日本語と英語ではちょっと違う。英語の方では、たとえば、。I am Mr. Smith.”というようなことを言うことがある。アメリカ人から名刺をもらうと、Miss.- と自分の名刺にMissを付けている人もいる。日本人は、まさか自分の名刺に「-様」と書くことはないので、そういう点は違う。

 もう一つ、日本人の場合には、苗字だけではなくて、どんな職業にも「さん」とか「さま」とかを付けることができる。たとえば「駅長さん」「八百屋さん」で、これは英語にはない。駅長はstationmasterで、これに敬意を表して’ Mr. Stationmasterと言うことはない。これでは群集の中から駅長一人だげを敬意のこもった言い方で呼び出すことはできない。

 日本語にはそのほかに、敬称を表わす言葉がたくさんある。これも英語などとは違う。「-殿」「-氏」「-兄」……と、いくらでもある。

 敬語の表現で、次に世界の言語に普遍的なのは、第二人称の代名詞に関するものだ。これもまたヨーロッパの言語にもある。たとえば、ドイツ語できと言うと

 「おまえ」にあたり、「あなた」と言うときはSieという別の言葉を使う。フランス語ではtuというのが「おまえ」で、「あなた」という場合にはvousを使う。フランスの映画を見て、若い男女がはじめはvousと言っていたのが、途中からtuに変わったとすると、フランス語を知っている人は、この二人は肉体的な関係を結んだんだな、と想像できるのだそうで、私などはぼんやり見ているが、まあ、重宝なものだと思う。

 日本語には、相手をさす代名詞は、「あなた」「きみ」「おまえ」……とたくさんある。朝鮮語も中国語も、その他東南アジアの諸言語も同様らしい。日本語には「あなたさま」のような高い敬語もあるが、一般に、相手を指す代名詞の格がどんどん下がってきた。

 俗謡に「おまえ百まで、わしや九十九まで」というのがある。これはいったい男の言葉か、女の言葉か。今の人が考えると、「おまえ」というから男が女に言っているようであるが、そうではない。「おまえ」というのは、元来、目上の人に言う言葉で、ここは女の人の言葉だ。つまり、女の方がだいたい年が若いから、相手には一〇〇まで生きてもらわなければいけない、自分の方は九九まで、と言っているわけである。「君」という言葉も、明治ごろは相当な敬意をもっていたが、今では学生に対して使っても不快そうな顔をされることがある。
『日本語』 金田一春彦