オーギー・レンと村上春樹

出席者D クリーシエ(決まり文句)の問題もありますよね。前に柴田さんがおっしゃってましたけど、村上さんの訳を直してていちばん衝撃を受けたのが、英語のクリーシエをまさにそのまま訳してあったことだと。しかもそれがぜんぜん変じゃなくて、こういう手もあったのかとすごく衝撃を受けたと……
村上 クリーシエつてそのまま訳すとおもしろい場合があるんですよ。そうじゃない場合ももちろんあるけど。
柴田 それが僕にしてみればコロンブスの卵だったんですね。何か日本語独自の等価表現を見つけなければいけないような気がしてたから。

 二人のオーギー
柴田 『オーギー・レンのクリスマス・ストーリー』のほうはいかがでしょうか。タイトルはさすがに一緒ですね、これは。
村上 でも、皆さんにお聞きしたいんですけど、二つ読んでみて、やっぱりずいぶん雰囲気が違いますか。
出席者F これはすごく似ていると思います。
村上 ”Collectors”のほうが……
出席者F すごく違う感じがしました。
柴田 『オーギー・レン』のほうもけっこう違うと思ったんですが。
村上 僕は、実は本を読むより先に、映画を見ちゃったのね。柴田さんは先に本を読んでるんですね。
柴田 そうですね。
村上 そういうのも違うかもしれませ。カイテルの顔が、どうしようもなく浮かんじゃうんだね。あの人、やっぱりすごく存在感があるからね。
編集者 この作品は、言葉づかいからすると、柴田さん訳のオーギーのほうが、(Iヴィー・カイテル的なちょっと胡散臭い感じで、村上さんのはもっとニュートラルな感じを受けるんだけれども、ところが、全体としての印象は、私は、逆に村上さん訳のオーギーのほうがなんていうか、下世話だと思ったんですよね。だから、こういう言葉一つひとつの訳語のチョイスと、全体の雰囲気とはまた違うのかも……
村上 これは、柴田さんの文章のほうが切れ込みがいいのね。というのは、前のめりになっている、訳し方が。気持ちが入ってるんだよね。だから、文章を書きながら体が前に行っている。で、僕のほうは引いてるんですよ。その違いはあるね。それはやっぱり入れ込みなんだね。
『オ-ギー・レン』のほうは、柴田さんが前にのめってるね。珍しいけどね、柴田さんにしては、というといけないけれども。
出席者E 『オーギー・レン』は、けっこう柴田さんの癖が出てますよね。熟語を多用すると、
「ぎらぎら」「ぴかぴか」とか、そういう形容句も多い。「絶望している」と言わずに「絶望に包まれて」と言ったり……
柴田 ああ、ちょっとクリーシエつぽく訳すということね。
村上 だから、こうして細かく読み比べていくと、柴田さんの訳と僕の訳の違いというのは、まあとくにこの作品の場合は、ということになるかもしれないけど、カメラアイの切り返しなのね。文章を目で追っていると、こう切り返す、こう切り返すというような、切り返し方があるんですよ。だから、二つの文章をつなげるとか、ひっくり返すとか、バラバラにするとかいうのは、どういうふうにしてそれをやるかというと、カメラアイなのね。文章のカメラアイが、どういうふうな角度で流れるか、どういうリズムで流れるか、それぞれ文章のひっつかみ方が変わってくる。その切り返し方がずいぶん違うのでびっくりした。たとえば受け身を能動的に訳すか、受け身で訳すかというようなことですね。カメラアイの切り返し方でそのへんが決定されていくんだけど、それが、逆になっている例か、読み比べてずいぶんあったね。
 そういう面で、切り返し方が柴田さんのほうがリズムが早いという気がするんですよ。で、他のオースターの訳、ほとんどの場合長篇なんだけど、とくに前のめりになっていないんだけど、これについてはけっこう前のめりになってますね。「前のめり」という表現が悪ければ、ぴっと気持ちが入っているというか。
柴田 そうですか。
村上 うん、そういう印象を受けた。だから、ずいぶん情景のとらえ方の角度が違う。たとえば、アルバムの写真を見せられるじゃない? あの描写なんかでも、僕の描写と柴田さんの描写は、方向が違うことが多いですね。結果的にはもちろん同じなんですけど。