精神病という事実を受容できない患者と家族

 患者とその家族にとって、正しい対応のしかたを身につけるうえで、これが二番目に重要な要素です。受容することは、あきらめることではありません。受容とは、病気がどこかに消えてなくなることはない、患者の能力は多少の制約を受ける、病気は現実のものなのだ、ということを認識することです。「こうあってほしい」と思い描いた姿ではなく、そのままの姿を受容することなのです。

 エッソーリートは、自分の病気を受け入れるまでに直面した問題を次のようにはっきり記しています。「自分が経験できていたかもしれない漠然とした人生のイメージにとりつかれました。どんな人になっただろうとか、どんなことを成し遂げていただろうとか」。けれども、一度受容できると、患者は非常に大きな重荷から解放されます。もう一人の女性患者、ジュディスーバウムは次のように記しています。「朝がやってきました。太陽の光が眩しく、寒い朝、私は自分か精神病だという事実を受容したのです。それは、嵐のような、怒りと不安に満ちたものでした。でも、受容と共に、そんな気分はすっかり消え失せてしまいました」。

 多くの患者や家族は、どうしても病気を受容することができず、くる年もくる年も常にそれを否定し、まるでそんな病気が存在しないかのようにふるまい続けます。しかし受容できてしまえば、みんなにとってこんなに心が楽になることはありません。ある母親は、娘が自分に下された診断を知り、それが一〇〇人に一人の確率でしかないことを知ったときに言った言葉を次のように記しています。「もしそれが確率の問題なら、私かその確率に当たっても別に不思議じゃないわ。私には私の手をしっかりと握っていてくれる素晴らしい家族があるし、私か病気に見舞われたことで、ほかの誰かがそれから逃れられたんだもの」。このような素晴らしい態度は、とても望ましく、努力なくしては得られないというか、むしろなかなか得がたいものです。なぜなら、そのような洞察とやさしさは非常に稀れなものだからです。

 残念ながら、患者と家族の双方が病気に対する怒りの念をもっていることのほうがふつうです。そのような怒りは、統合失調症をつくり出した神に向けられたり、病気とつき合わなければならない不運に、病気になった患者に、あるいは「病気を生じさせた」として家族相互に向けられます。その怒りは、統合失調症の家族がいることで社会的な活動に制約が生じた時に、ほんのわずか表面に泡のように現れる不快感から、金属を腐食させる酸のように日々の生活のなかに染みついている激しいものまで、さまざまです。このような怒りの感情は、しばしば表面には現れず、内面に向けられることがあり、その場合は、うつ状態を呈します。

 そのような状態にある家族と出会うたびに、一ヶ月間仏教の修行をさせることができたらと思います。そこでなら、家族はこの病気のもたらす困難を克服するのに必要な態度、すなわち、ありのままの人生を受け入れるという東洋的受容の精神を修得するでしょうから。このような受容は、統合失調症を人生の悲劇的な出来事のひとつにはするものの、その病気が、人生の最も大事な部分をむしばむ毒素になることだけは防いでくれます。ある母親が私に次のように語ってくれました。「頭の上を飛び回る、悲しい歌をさえずる小鳥を追い払うことはできないわ。でも、その小惑が髪の毛をめちゃくちゃにしてしまうことはやめさせられるのよ」。