統合失調症への正しい対応のしかたは?

 統合失調症を取り巻くさまざまな困難をのり越えていくにあたって、本人や家族が、正しい対応のしかたを知ることはきわめて重要なことです。統合失調症にひそむ双子の怪物、「非難」と「恥」とが解決されたときに、正しい対応は自然に生まれてきます。この双子の怪物は、多くの家族のなかに潜み、前進を阻害し、家族関係を悪化させ、お互いに責任をなすりっけ、非難し、その応酬をするといった危機的な状態をもたらします。非難と恥は、統合失調症から生まれる状況を、にっちもさっちもいかないものにしてしまいます。

 事実からも明らかなように、非難したくなる感情をもったり恥ずかしさを覚えることは、まったく理に合わないことなのです。子供のころのしつけ方や成人になってからのつき合い方と統合失調症には、なんの因果関係もありません。統合失調症は脳に起因する病気で、少年期や青年期の対人関係とはなんの関係もないのです。しかし、多くの人がまったく逆のとらえ方をしています。そして多くの場合、専門家が言ったこと、あるいはほのめかしたことが、家族にそういった感情をもたせてしまうのです。ルイーズーウイルソンがその著書『我が息子一この見知らぬ人』で、このあたりをたいへんわかりやすく表現しています。

 母「では、トニーを今のような姿にしてしまったのは私たちなのですか。」

 精神科医「こう表現することにしましょう。子供はみんな白紙の状態で生まれてきます。だからそこに書かれているものは……」と言ってずんぐりした指で私をさしながら、「あなたが書き込んだのです。」

 そのあとはご想像のとおりです。この母は夜中目を覚まし、自分のしてきたあれこれを振り返り、統合失調症の発病につながったのかもしれないと気に病むのです。

 この子が小さかった頃、あまりにも引っ越しを繰り返しすぎたわ……お父さんが海外にいて私か妊娠していた頃、私の高ぶった気持ちは……お父さんは仕事に忙殺されていたし……いつもそばに誰かがいてあげられなかったし、お父さんのイメージは……はじめての子供だったし、その後にも次々に子供ができて……期待が大きすぎたのね……子供らしい過ごし方をさせてあげられなかったし、あまりにも早く大人になってしまった……しつけ方もその場しのぎで……放任しすぎたかしら……きびしくしつけすぎたかしら……子供のまま成長がとまってしまったのかも……。

 母親であれ、父親であれ、または兄弟姉妹の誰であっても、家族間の過去の人間関係を後悔しない人などこの世の中にいるはずはありません。私たちは結局、完璧な人間ではないのですから。誰もが、時に嫉妬や怒り、自己中心的な気持ちや疲労感などからあまり深く考えずにしゃべったり行動したりしてしまうものです。しかし、幸いにも私たちの精神には弾力性があり、たまにやってくるそういった衝撃にも、完全に崩されたり壊されてしまうことはありません。人間関係それ自体が統合失調症の病因になることはありません。皆お互いそのように非難し合っているだけなのです。

 統合失調症を引き起こしたとして非難し合うのは、なにも家族に限った話ではありません。統合失調症患者自身もおそらく同じことをしています。『暗闇の中で』に記されたジェームスーウェシュラーの息子は、ある日こう言いました。「父さん、僕はこんなふうには生まれてこなかったよね」。そして、ルイーズーウイルソンは先はどの著書で、次のような息子との会話を記しています。

 卜二ーが、「僕、雑貨屋におもしろい本があったんで全部立ち読みしちゃった」と言いました。

 私たちは、その言い方にただならぬものを感じて、なにも言わず次の言葉を待ちました。

 「その本には、良い親はどうあるべきかが書いてあって、親としての資格がない人が親になると、子供は僕のようになっちゃうんだって。」

 「トニー」と私は言いかけたのですが、ジャックが黙るように促しました。

 「僕は哀れなクズさ。だって、あんたたち一一人ともそうなんだもん。あんたたち二人ともおかしいよ。子供なんてつくるべきじやなかったんだよ。」

 ジャックが「私たちのどういうところが変なんだい」と静かに聞きました。

 「あんたは僕と一度だって野球をしてくれなかったじゃないか。あんたがやりたかったことといえば、歩き回って鳥を探すか、本を読むことだけだったじゃないか。そうでなかったら、あのクソ病院のなかで仕事をすることだけだったんだから。」

 「うん。もし私か運動選手だったら、お前にはもっとよかったかもしれないね。そうだったろうと思うよ。でも、どうして、それが理由で、私かそんなひどい父親だったことになってしまうのか、私にはまったくわからないね。」

 「本を読みな!」トニーは叫びました。

 「トニー、本にもいろいろあるんだ。そしてたいていの本は、的を射てないか、ねじ曲げられてるか、ただ単に間違ったことを書いているんだ。それに、本は……」

 「聞きな! 僕の担当の先生だって同じ意見をもってるんだから! 先生は、僕のような問題を抱えて生まれてくる赤ん坊はいないって言ってたよ。」

 病気のことでお互いに非難しあうことは、統合失調症を取り巻く危機的状態をさらに深刻にします。病気そのものは脳の慢性病であり、本人や家族の危機も手のつけられないほどのものではありません。しかし、すでに抱えている重荷に加え家族が互いに非難しあうと、この病気は家族全体に深く際限のない苦痛をもたらします。この苦痛は想像にあまりあります。次の手紙は、ある女性から寄せられたものです。

 私の姉の病気に苦しめられながらコ一年前に他界した母は、この病気について書かれた本や記事はすべて読んで、最後に、自分のせいで娘を病気にしたのだという結論に達しました。七〇代の父は、母の死後、姉を州立病院から自宅に引き取り、五年ほどいっしょに過ごしました。母のために、姉が病気ではないことを証明しようとしたのです。しかし、姉の病状はひどくなり、結局病院に戻すほかありませんでした。

 統合失調症の病因は両親や家族であるという考え方が、家族にどれだけの苦悩をもたらすかについて関心を示しか専門家はほとんどいません。とくに精神科医は、自分かちがそのような苦悩をもたらしているなどとは考えもしません。しかし、実際はその逆で、今世紀、精神科医が統合失調症者にしてきたことは、良いことよりも有害なことのほうが多かったといえるかもしれません。もちろん有害なことは、悪意をもってなされたわけではありません。実際のところ、私の周りにはいやしい気持ちのある精神科医はいないといってもいいほどです。むしろそういった有害なことは、精神力動論や家族相互作用説を広めることによって、なにげなくもたらされるのです。しかし、それが有害なことに変わりはありません。ウィリアムズ・A・アプレトンは、この問題を取りあげた数少ない一人ですが、家族が病気の原因だと専門家が非難することで、どんな不幸な結果がもたらされるかを次のように書いています。

 ひどい扱われ方をした家族は患者に反発することが多く、それが患者にとって有害となります。患者が起こす問題に対する寛容度が低くなり、患者に対する態度を変えたからなくなります。そして、面接の時にもあまり情報を提供しなくなり、病院への訪問回数も減ってしまいます。

 病気のことで人を非難したり、罪悪感を感じることからなかなか脱け出せない家族もいます。こうした例は、まだ小さい子供のいる家庭などに見受けられることがあります。上の子供が統合失調症で、その原因が自分たちにあるという前提に立てば、理論上は、家族の行動や態度さえ変えれば、下の子供の発病を防ぐことができるはずです。しかし、すべての証拠が示すように、もしこの病気が脳器質的な原因で誰かれとなく降りかかるものだという前提に立てば、家族自身ではそれを未然に防ぐことができないはずです。

 ところが、このような家族は罪悪感から、自分たちでなんとかできるものだという錯覚を抱いてしまいます。このほかに見かけられる罪悪感を捨てきれない例としては、罪悪感そのものが、その生き方になってしまっている家族があげられます。このような家族は、通常、そのうちの二人か二人が精神分析を受けていて罪悪感のなかで成長し、そのなかにどっぷり浸って、お互いを非難しあうことが日常茶飯事になってしまっています。ある母親が私に話してくれたのですが、このような家族のなかでは、「罪悪感はそれ自体が次の罪悪感を生み出す温床」なのだそうです。私は、そのような家族をもつ患者に、家族からはできるだけ遠ざかるように勧めています。障害と共に生きていくのに有害だからです。

 恥じる気持ちは非難する心の裏返しです。理由はどうであれ、もし自分かちが統合失調症を生じさせたと信じているなら、家族は当然患者をひたすら隠そうとし、周囲の人には病気の存在を否定し、さもなければ、多様な方法で患者を自分だちとは無関係な存在にしようとします。患者はこれを察知し、以前にもまして孤立感を深めることになります。その時点で、患者が家族に対して怒り、仕返しをするようになっても、別に不思議ではありません。たとえば、奇抜な行動を抑えようとしなくなり、たぶん、前出のアガサ叔母さんのようなお年寄りの前で服を脱いでしまうでしょう。そんな行動は、家族の恥じる気持ちをさらに煽り、患者をいっそう孤立させ、怒りへと駆り立ててしまいます。こうして恥じる気持ちと怒りの感情の悪循環はますます激化していくのです。

 この非難と恥の問題は、教育によって解決できるかもしれません。家族みんなが自分たちが病気の原因ではないことを理解するようになると、非難する気持ちや恥じる気持ちはしだいに失せていき、患者の生活環境は改善されます。誰が病気の原因なのかという疑問は、家族全員で議論する必要があります。できれば患者本人もその話し合いに入ることが望ましいのです。そのような話し合いのなかで明らかとなる家族それぞれの確信や恐れには、たいへん驚くべきものがあります。そして、いったん非難や恥の問題が解決され、別の視点で問題が議論されるようになれば、統合失調症という病気は、もっと楽につき合っていける病気になります。ある親がこんなふうに説明してくれました。

 家族が、本来は善意あふれる専門家によってもたらされた罪悪感からいったん解放されれば、次のステップはとても簡単です。もしなにも後ろめたいことはなく、できる限りのことをしてきたのであれば、なんら恥じることはないのです。大手を振って表を歩くことができるようになります。このようにして得られた解放感は、次のステップに移る強い原動力になり、社会に戻るための大きな足がかかりになります。

 非難する気持ちや恥じる気持ちがなくなると、病気に対する対応は自然にできてきます。正しい対応には四つの柱があり、その頭文字をとってSAFE対応と呼んでいます。すなわち「ユーモアのセンス(S)」、「病気の受容(A)」、「家族間の均衡(F)」、そして「現実にそった期待(E)」です。