家族は、どうしたら統合失調症と共に生きていけるでしょうか

家族は、数多くの問題に直面します。とくに母親は、多くの場合患者のケースマネージャー、精神科医、看護婦、大家、調理人、用務員、財産管理人、教育係、そして良き友人と、何役もこなさなければなりません。一九六〇年代以前は、ほとんどの統合失調症者は、少なくとも断続的に病院に収容されていましたから、家族に課せられたこの処理不能ともいえる膨大な仕事量は、比較的最近になって表面化してきたものなのです。

 患者に対して家族はどう対応すべきか、とよく質問されます。一般的には、患者といちばんうまくつき合える人が、その対応がいちばんうまいといえましょう。この考え方は、精神病院の看護スタッフを観察すればわかることです。専門家と患者の双方から信頼されているスタッフは、たとえ脳の病気におかされていても、患者を人間として扱い、尊厳ある看護を提供します。いちばん信頼されていないスタッフは、患者を見下しかような態度で扱い、ことあるごとに患者に劣等感を植えつけます。これは、しばしばスタッフが統合失調症を理解していないか、統合失調症を恐れている場合に見られます。そこで、「統合失調症者にどのように対応したらいいか」に対する簡潔な解答は、「親切に」ということになります。

 ただ、これに加えて、統合失調症がもついくつかの特徴から、対応には多少の調整が必要になります。この調整は、病気が脳の障害であり、症状の特性をもっことから直接導き出せる調整です。患者は、五感を通じて入力された情報、とくに同時に一石以上の刺激を受けた場合に、その情報の処理が非常に困難となります。このことを念頭におけば、その人に対してどのような態度を取るべきかは、よりわかりやすくなります。

 たとえば、会話は短く、簡潔、明快なものとすべきです。ある家族が次のように説明してくれました。「患者をみつめ、短く、簡潔に、大人言葉で話す……はっきりと具体的に……一度に一つだけの指示を与え、選択肢は残さない」。また別の母親は、どのように会話を交わしているかを次のように説明してくれました。

 息子は、周囲のすべての刺激にどのように対応すればよいのかわからないようでした。彼は徐々に快くなり、「自分に向けられるものに対して、どうしたらよいのかわからない」と言ってきました。この時点で重要なことは、私が簡単な文章をゆっくりと話すことでした。こうしてほしいとか、ああしてほしいというようなことは、会話一回につき一つだけにしました。会話の内容が複雑にならないようにすることは、とても重要なことでした。感情が高揚すると、私の言っていることを理解できなくなりました。私にどんなに急ぎたい気持ちがあっても、息子を急き立てることなどできません。忍耐力が断然必要でした。

 最終的に私は、議論が無益であることを学びました。息子の症状がひどい時は、議論はすぐに噛み合わなくなりました。しばしば彼は理由づけができず、私はどう反論したらよいかわがらなかったのです。私か学んだのは、しなければならないことを慎重に選び、直面するであろう状況にどう対処するかを事前に考え、そして、息子のどんな反発にも応えないことです。たとえば、「八時に出かけるから準備をしておくように」といった、明快かつ断定的で簡潔な言葉を使いました。そして、私は促すように立ちあがり、コートを渡し、ドアも開けました。

 ときには、メモや電話を使ったほうが、面と向かって言うよりも効果的でした。時々、なぜか私かそこにいるだけで、息子は強い圧迫感を感じていたようです。

 患者には、一度に一つだけ質問をすること。「楽しい時間が過ごせた? 誰といっしょに行っだの?」といった質問は、健常者には明快な二つの質問の合成として受け取られます。しかし、患者にとっては、これでも混乱をもたらす質問となりうるのです。

 患者の混乱した思考を追求することは非生産的です。たとえ試みても、ジョッーウィッグが以下に記すように、多くの場合、誤解と嫌悪を招くだけです。

 患者は、突発的で非合理的な恐怖心を抱くことがあります。たとえば家のなかのある特定の部屋を恐れ、家族にその理由を次のように説明します。「その部屋には毒ガスが流れ込んでいる」、「あの部屋のベッドの下には蛇がいる」。最初のうち家族は困惑し、わからせようとしますが、いくら話してもその考えをかたくなに捨てようとしないことにすっかり挫折感を覚え、平静さを失ってしまいました。結局、患者の考えを変えさせようとすることは、患者をたいへん怒らせ、その考えそのものは以前にも増して強い確信となってしまう、そのことに家族は気がついたそうです。

 患者と議論をするよりも、同意できないことをはっきりと言う、これなら患者に挑戦することにならず、また怒らせることもありません。すなわち、[あの部屋のベッドの下には蛇がいる]に対する上手な答え方は、「蛇なんていないよ」と有無を言わせぬ言い方ではなく、「あなたがそこに蛇がいると信じているのはわかったわ。でも私にはなにも見えないし、いるとは思えない」というものです。患者は、それ相応の理由でそこに蛇がいることを信じているのです。たぶん、その物音を聞いたか、ひょっとすると見てしまったのかもしれません。患者の感覚的な経験については、その経験だけは尊琅するが患者の理解のしかたは受け入れないという処し方が、家族にとって役に立ちます。たとえば次のようにです。「あなたには、そこに蛇がいると思う理由があることはわかるけれど、それは病気のせいであなたの脳があなたを騙しているんだと思うわ」。

 患者が妄想的な話をすると家族や友人は、えてして皮肉っぽく、またはユーモラスに対応したくなるものです。たとえば、先はどの蛇に関する話に、こう答えるかもしれません。「そうね。私も見たわ。ところで、あなたは台所のカラカラ蛇も見た?」。このような対応は無益なばかりか、しばしば患者を混乱させてしまいます。そのうえ、妄想的確信を強め、現実と自分のなかでつくられている世界との区別をつけにくくしてしまいます。自分の喉のなかにネズミがいると信じて医者に見てくれと頼んだ患者がいました。その医者は冗談半分に、ネズミはあんまり深いところにいるので見えないよと伝えました。その患者は、回復した後、その時のことをこう振り返っています。「もし彼らが、私の喉にはネズミなどいるとは思えないとはっきり言ってくれていたら、私はどんなにありかたく思っただろう」。これはとても示唆に富む言葉です。

 統合失調症特有の妄想に対応するもう一つの有益な方法は、家族や友人にだけそういった妄想を打ち明けるよう患者に働きかけることです。蛇の話をすることは、家族や友人の間だけなら害はありません。しかし、もしそれを混雑したエレベーターのなかで言ったり、お店で店員に話したりすると、関係するすべての人に迷惑となります。患者とそういったことを気負わず率直に話し合ってみて下さい。きっと感謝されるはずです。クリールとウィッグは、言っています。「より現実的な目標は、公衆の面前での妄想による行動を最小限に抑えることです。多くの患者はこのことをよく理解し、独り言を言ったり妄想を話すのはプライペートな時だけにしています」。

 患者が会話をする時の障害は、多くの場合通常の行きつ戻りつする会話に参加できないところにあります。「ある患者は、毎晩デイセンターから戻ると、叔母が用意したI食事を黙々と食べ、それが終わると自分の部屋に直行しました。老齢で孤独なその叔母は、夕方の会話を楽しみにしていましたが、その患者に会話能力がほとんどないために困惑していました」。そういった患者は、多くの場合、自分の周囲の会話はわかるのですが、それに参加することはできないのです。「ある若い男性は、両親が話し合っている間、いつも黙って座っているか一人でなにかぶつぶつ言っていました。しかし彼が病院で、その家庭での会話についてある看護婦さんに時折しゃべっていたこと、そして、まるで関心をもっていないようすだったのに、その会話の内容をよく理解していたことを、後日その両親は知りました」。そういう患者は、自分の周りに誰かがいてほしいと思うのですが、その人だちと直接かかわり合うことはしたくないのです。「ある女性は、統合失調症の甥が自分を訪ねたかっていることを友人から聞いて驚いたそうです。『そんなこと考えてもみませんでした。だって、甥は家にきてもただ椅子に黙って座っているだけなんですもの』」。

 家族が患者との関係をもとうとするときに生じる似たような問題は、患者がその感情を表現できない、ということです。患者はしばしば、非常に親しい家族にさえ一見冷たく距離を置きます。この感情の凍結状態は、よく見られます。難しいかもしれませんが、この冷淡さをあなたに対する個人的な感情の表れとは受けとらないで下さい。患者には、家で飼っているペットのほうが自分の感情を表したり、やさしい言葉をかけたりしやすいのかもしれません。したがって、この目的で患者が犬や猫を飼うことは時によい結果をもたらします。

 患者が内に引きこもってしまった時に、家族がどのように対応すべきかは、どの家族も一様に抱えている問題です。この病気にかかった多くの人にとって、内に引きこもることは時に必要なのです。ある母親が私に次のような手紙をよこしました。娘とお皿を洗いながら話しをしていた時、彼女が私のほうを向いてこう言いました。「ちょっと私を放っておいてくれない、お母さん。自分だけの世界を楽しみたいの」。内に引きこもりたいという感情は、時に口頭ではっきりと表現されます。私は、一度部屋に引きこもると、夜中になにかを食べに出てくる以外は一週間ずっと部屋から出てこなかった患者を診たことがあります。

 このように社会的な接触を断ってしまうケースに直面すると、どうしたものかと途方にくれるかもしれません。患者に部屋から出て社会と関係をもつように働きかけるべきなのか、それともそのまま放っておくべきなのか。原則として、そのまま放っておくほうがよい、これがその答えです。こう言われると、家族はちょっと困惑されるかもしれません。もしその引きこもりが過剰であったり、あまりにも長期にわたっていると感じられる時は、もっと重い症状が再発した可能性もあるので、かかりつけの精神科医に診てもらう必要があります。しかし、ほとんどの場合、引きこもりは、患者が脳のなかの混乱状態に対応するための手段であって、患者にとっては適切な対応なのです。家族は、そういった症状を自己否定的な行動としてとらえることなく、しかし、必要があれば対処できるように心かけておかなければなりません。ある母親の次のような表現が参考になります。「息子の症状がひどい時は、無理に自分の世界から私たちの世界に引き出そうとはしませんでした。ただ必要となった時にはいつでも手を貸し、会話の相手をしてあげられるように準備だけはしながら、できるだけ邪魔をしないように心がけました」。

 社会的生活のなかでは、患者にあまり多くを期待しないことも重要です。彼らが感覚的な情報を整理したり、実際に言われたことを理解することが十分にはできていない、ということを忘れないで下さい。患者にかかる負担や重圧を軽減するために、パーティなどはできるだけ避けて下さい。患者は、一度に一人なら相手ができるかもしれませんが、集団を相手にするのは、多くの場合刺激過剰になってしまいます。同様に、外での集まりやパーティなどに連れていくことも、多くの場合、混乱をまねく体験となります。

 また楽しいと感じられる余暇活動を見つけるために、いろいろなことに挑戦してみて下さい。いろいろな活動のなかでは、刺激が単純なほうがたいていうまくいきます。患者は、一般にテレビのアニメや旅の番組は楽しめますが、ストーリー性をもった番組は理解しにくいでしょう。野球よりは、ボクシングの試合を好みます。サーカスやアイスーショーのような視覚に訴えるものは大いに楽しむことができます。しかし、演劇はふつうはなんの楽しみにもなりません。もちろん、個人差はあります。したがっていろいろな可能性を探ってみる必要はあります。必ずしも、発病前に楽しんでいたものを発病後にも好むとは限りません。

 患者の望ましくない行動すべてを病気のせいにすることは、家族が陥りがちな罠の一つです。「病気の罠」とでも呼ぶべきものですが、患者が汚れた靴下を手に取ったり、歯磨きのチューブのふたを元に戻さないなどきわめて些細な欠点も、統合失調症のせいにしてしまいがちです。人間はすべて些細な欠点をいろいろ生まれもっていること、そして、世の中には完璧な人などいないのだということを改めて思い起こす必要があります。すべてを病気のせいにしたくなる気持ちを抑えて下さい。そして、あなた自身が先週何度失敗したかを自分に問いかけてみて下さい。患者ではない人たちが時にしくじるのはあたりまえだと思われているように、患者もたまに過ちを犯すものだと受けとめてあげるべきなのです。どんな人にも、失敗はつきものです。私たちの神経化学物質と神経生理の仕組みはいつも完璧に活動するわけではないのですから。失敗の許容範囲を統合失調症の人たちにまで広げることは当然のことですし、それはあたりまえのやさしさでもあります。

 そして、なによりも、じたばたしない態度を身につけることです。たとえ患者の考えついたことがどんなにおかしなものでも、対応できるのだという自信をもって下さい。もしある朝、患者の幻聴がひどいことに気がついたら、関節炎が悪くなった人に対するときと同じような感じで、それを事実として認識し、次のように簡単にコメットしてあげるのです。「かわいそうに、今日はとくにその声があなたを煩わせているようね」。ある親が次のように言っています。「患者と家庭でつき合ううえで私か学んだことのうちいちばんためになったのは、できる限り冷静でいるということです。混乱と妄想は、私のせいではないのだし、私か冷静でいる限り息子も冷静でいられます。私は心のなかでは激しく動揺することもありますが、でも表面では落ちつきを保っていられます」。

 患者といっしょに家庭で生活する場合に重要なことが二つあります。それは、それぞれの生活の尊重と一定した生活内容です。統合失調症の人には、自分だけの部屋が必要です。それはひとり引きこもる時に使える静かな空間です。この問題はいろいろな方法で解決することができます。小さなトレーラーハウスを裏庭に置くこともその一例です。生活内容を一定にすることも多くの患者にとってとても有意義なこ。とです。毎日一定の時間に食事をし、雑用を片づけること、そして、毎日、毎週、前もって次にすることがわかるような一定のリズムをつくっておくことで、患者の能力も向上します。ある母親は次のように言っています。

 生活に一定のリズムをつくることが、とくに症状のひどいときにはたいへん重要だと気づきました。物事は毎日決められた時間に同じように繰り返され、各曜日ごとに、共通性はできるだけ保ちながらも、それぞれに特色をもたせます。こうすることによって、秩序の感覚、人生が予測可能なものであるという感覚、そして時間の感覚が養われます。

 生活にリズムが生まれると、次に家族は、患者がとくに理由もなくそのリズムから逸脱することに気がっきます。それがとくにいちじるしいのは睡眠と食事で、ある父親は次のようにその不満を打ち明けています。「妻が食事をつくってあげるのに、その時は食べようとしないんです。でも二時間経ってから突然食べ始めるんですよ」。この問題に対するすぐれた解決法を、この患者の母親が次のように記しています。

 患者が突然食事をとることについては、息子の場合、簡単な健康食品がいつでも食べられるということが重要なポイントです。ヨーグルトやチーズ、お肉などを冷蔵庫に、果物を机の上に、カンヅメを戸棚に、常に確保しておくようにしました。三度の食事はもちろん大切なものですが、こういった食べ物はそれ以上に大切なもののようです。食べる時間が一定しているかいないかは、あまり問題ではありません。息子が午後四時にカン入りシチューを食べたなら、夕食は、食べたくなったときに、ただ温めればいいようにしておきました。

 もう一つ、長期にせよ短期にせよ、患者といっしょに暮らしている家族が知っておくべきことは、患者の許されない行動とはなにか、ということです。何週間もお風呂に入らないようなら、それはみんなに迷惑なことでしょう。攻撃的な、またはベッドでタバコを喫うような危険な行為は、決して許してはなりません。そういった行為をした場合にどうするかは、事前に明確に決めておく必要があります。そして、家族は必要があれば、決めたとおりに実行する心づもりをもたなくてはなりません。

 多くの家族を困らせるもう一つの問題は、患者にどこまで自立と自主性を認めるかということです。この問題は、青年期の子をもつ親のそれと似ています。原則として、患者には、自分で責任がもてる限りできるだけ広い範囲の自主性と自立を認めるべきです。これは、徐々に段階を踏んで行います。たとえば、コンサートに出かけ夜遅くなっても一人で帰宅できると思っている患者には、なにかの機会をとらえて、その準備ができていることを証明してもらいましょう。たとえば、お店に定期的に行ってなにも問題なく帰ってきたとか、日中ハイウェイハウスに一人で行って帰宅できたとか、街で麻薬には手を出さなかったとか、風変わりな行動で外出中にトラブルを起こさなかった等々を通じてその自信のほどを証明してもらうのです。ある家族は、患者が発病後はじめて町に出ていった際、それを確かめるため、こっそり後をつけたそうです。患者がさらに自主性を求めてきたなら、家族はそのための条件を設定するといいでしょう。たとえば、ハウスから一人で帰りたいという患者には、バス路線を調べること、出かける前に二週間家のドアの鍵締めを忘れないことをその条件とするという具合にです。

 日常の簡単な仕事も、患者が自立の枠を拡げられるかどうかをみるうえで有効です。掃除や食器洗い、ゴミ出し、犬の餌やり、草取りなどが適切です。家族は、ストレスを高め、再発を招くのではないかという心配から、時に仕事を与えることをためらいがちです。患者が怠け者であると、家族のほうはよけいに再発を懸念して、仕事があっても病気を口実に自立の可能性を遠ざけてしまいます。ある母親は、このような状況に陥ったときにどうしても感じる怒りにも似た感情を次のように表現しています。「家のなかにやらなければならないことが山ほどある時は、そりゃ腹が立ちますよ。だって、そこにはとても元気そうな若い男がいるのに、その男ときたら、ただ座って本当になにもしないんですもの」。家事をすることで患者の病状が悪化することはありません。また、このような簡単な仕事は、プログラムのなかに幅広くとりいれられています。患者は仕事をすることでさらに自主性が身につき、同時に自信もついてきます。ある患者は、症状は非常に重いにもかかわらず、家事をきちんとこなし、そのあとは気分も爽快になると言っています。

 患者の金銭を管理することは、いちばん難しい問題かもしれません。多くの患者は自分か受給しているSSI(補足的所得保障)の一部が、個人的な支出として割り当てられ、自分にはそれを好きなように使う権利があることを知っています。しかし、そのお金は、タバコやジュース類もさることながら、患者の基本的な生活必需品の購入に当てられるべきことを患者はわきまえなくてはなりません。

 患者のなかには、自分のお金に全責任を負い、金銭管理もほとんど問題なくできる人もいます。たとえば、私の知る重い妄想型統合失調症の女性は、ほとんどいつも妄想状態にあるのに、自分で毎月銀行に行って金銭管理をしています。当然のことですが、彼女はいくら蓄えがあるかなど、医師にも看護婦にも言いません。しかし一般に患者は、自分で金銭管理をすることができません。たとえば、誰であろうと、最初にお金を無心してきた人に所持金を渡してしまう患者もいます。そのような患者については、他の行動面での自立の程度との関連で、金銭に関する決定権を考慮するといいでしょう。またたとえば、患者が身だしなみを整えられない場合は、毎週言われないでもシャワーを浴びるようになった時に、お小遣いの増額に同意してあげるとよいでしょう。日常の雑用がこなせるようになったということも、患者がより高額な金銭の責任を負えるようになったことを示す目安となります。

 自立と金銭管理については、患者が回復してきていることを家族は理解できないために、家族にとっても問題となります。自分で服も着られなくなった患者と生活を共にした経験があると、その数週間後に患者が一人でバスに乗って出かけ、またお金を自分で管理できようになるなどとは、そう簡単には信じられないものです。家族は、不安にかられていると同時に傷を負っているために、適切に対処し受け入れることができなくなっているのです。

 さらに、家族にとって役立つものに、家族支援グループ、教育支援プログラム、そして短期ケアサービスがあります。家族支援グループは、アメリカでは、一〇〇〇ヶ所以上あり、ナミ(NAMI一全国精神障害者連合会)の組織として活動しています。また、カナダではカナダ統合失調症協会がその統括をしています。多くの家族にとって、地域の支援グループに参加することは、統合失調症と共に生きていくための、最も重要な第一歩です。

 家族が統合失調症を理解し、病気とのつき合い方を学ぶための正式な教育支援プログラムが、いろいろ提供されています。これらはまた、家族にとって大きな助けとなるでしょう。

 患者と生活を共にしている家族にとって、定期的に休みを取ることはたいへん重要なことです。短期ケアサービスの利用は、その一つの方法といえます。たとえば、カリフォルニア州にあるハローアルト退役軍人医療センターは、家族に休息の機会を提供するために、家族と共に生活している患者が二ヶ月に一度、一回につき二日から七日間再入院できるようなプログラムを運営しています。サウスカロライナ州では、アミ(AMI-地域の精神障害者連合会)が、州精神保健課と共同で、一九九〇年から患者の介護から家族を解放することを目的に、精神疾患のある人を対象にした一週間の夏期キャンプ家族休息プログラムを運営しています。