人工延命装置の本来の目的とは:「御仏前治療」を狙う悪徳病院

 実際に尊厳死運動にとりくんできた人たちの意見を分析していくと、その内容は、尊厳死とは、末期患者の延命医療をどうするか、具体的には人工呼吸器などの人工延命装置を外すか否か、延命治療をどの段階でとどめるべきか、といった技術的な段階の論議に終始しているにすぎないことがわかる。そのような声を受けて、医療現場で、末期患者の治療にあたっている医師たちの中には、より具体的処置を伴ったガイドラインのようなものがほしいと切実な声もあがっている。

 しかし、人工延命装置を外すか外さないかといった視点のみで、尊厳死を論じるのでは、この文明観を伴った医療の全体像は見えてこない。

 人工延命装置と一言でいってもそれは単に人工呼吸器をさしているわけではない。点滴やカテーテルなどもそこには含まれている。

 末期患者は自力で呼吸ができなくなったり、栄養補給ができなくなったり、あるいは血液の循環も困難になる。そのときに人工呼吸器や点滴などが用いられるが、本来はそうして生きつづけ体力をつけながら、疾病の治療を受ける。人工延命装置というのは、そのように利用されるのが本来の役目である。疾病が回復し、健康時の状態に戻り、これまでのように健全な社会生活が営めるまでの医療の補助手段だ。

 しかし、実際にはそうならない場合がある。とにかく死を防いで、新たな治療を行なうという本来の意味が薄れて、その人工延命装置によって「生」が保障されるだけという状
態になることが現実には多いのだ。つまり補助手段が目的化してしまうのである。人工延命装置をつけたまま植物人間となるケースなどその典型的なものだろう。

 重態患者が医学的に回復の見込みがまったくない場合は、本来なら人工延命装置は必要ではない。人工延命装置によって、たとえ「死」を先のばしにしても、それは真の延命にはならない。むしろそれは医療の暴走というべきである。

 現実に、日本にはそのような医療は多い。

 たとえば、人工延命装置は数日間、あるいは数時間しか延命できない場合でも用いられる場合がある。肉親が枕元に駆けつけるまで、「生」を与えておくというかたちでしばしば
利用されることもある。極端な例として、末期患者の最期は医療収入がふえるといって、治療費を稼ぎだすために人工延命装置を利用する悪徳病院もある。彼らはこれを「御仏前治療」と称しているのである。

 度のすぎた人工延命装置にこだわる医師のなかには、この装置を外すことによってかえって苦痛が増すというケースもあると警告するし、装置を外すことですぐに患者が死亡するわけではないと説く者もいる。末期がんの治療にあたっている医師は、患者の症状はすべて画一化された類型をもっているわけではなく、患者個人により内容は異なっているので人工延命装置を外せばすべて尊厳死に結びつくと考えるのは早計だとの指摘もある。

 医療の暴走と熱心な延命医療の差は、結局どこで分かれるのか、という問いに、現実には、確たる答はない。「生」をどう考えるかという倫理や理念によって異なる。その点が日本は透明になっているから、医療現場は混乱するわけである。

安楽死尊厳死保阪正康著より