日本尊厳死協会の会員がもっているカード(宣言書)

 日本尊厳死協会は、こうして「人間性の尊厳を維持して死ぬ権利」を強調することを骨子としたが、では、ここでいう「尊厳」とはどのような内容を意味しているのだろうか。

 正直なところ、日本の尊厳死運動は、「健やかに生きる権利、安らかに死ぬ権利を自分自身で守ろう」というのが基本的な考え方だと、主張するにとどまっている。だが、この語がどのような意味をもつのか、となれば、その理解はそれぞれの主観的な判断によって大きく異なる。

 簡単な疑問では、「安らかに死ぬ権利」というのは、肉体的にか精神的にか、それとも社会的にか経済的にか、という側面で異なってくる。ある人は肉体的にといい、またある人は精神的にとなる。尊厳の意味が異なっているのだ。

 尊厳死は、英語にすると「dignified death」あるいは「Death with dignity」と翻訳される。何をもって「尊厳の伴う死」というのかは、実は現在、各国でも多様な見方で論じられている。「尊厳」というのは誰のための尊厳か、という素朴な問いにさえも明確な答えはないといわれている。

 たとえば、老人病院の狹いベッドに寝たきりにされ、腕には点滴の注射をうたれ、膀胱カテーテルも挿入され、人工延命装置に囲まれて生命を保っている老人患者がいたとしよう。すでに意識も曖昧になるときがある。かつては社会的に活動したであろうこの老人も、見た目には「生ける屍」である。

 この老人患者には、「人間としての尊厳」が失われている。延命だけの医療はやめるべきだと、私は思う。

 しかし、この老人患者自身は、たとえそういう状態であっても、別に「自分には尊厳は失われていない」と考えているかもしれない。「自分の尊厳」とはこのような段階ではない、と考えていることもありうる。

 つまり「尊厳」とは、人によってまったく理解が異なるという当たり前のことが、尊厳死運動にはつねにつきまとっている。これは何を意味しているかといえば、尊厳死運動には「自者」と「他者」を明確に分ける思想が必要であるということだ。同時に、たとえ家族であっても、患者の意思を代行することには危険性が伴うということである。

 目下のところ、日本の尊厳死運動はリビング・ウイルによって署名したカードをもち、それを医療の場で示すという範囲にとどまっているが、それは賢明な方法といえる。ただし、このリビング・ウイルの文書は誰もが納得する普遍性をもっていなければならない。

 日本尊厳死協会の会員がもっているカード(宣言書)は次のような文面である。

 

尊厳死の宣言書

(リビング・ウイル)

 私は、私の傷病が不治であり、且つ死が迫っている場合に備えて、私の家族、縁者ならびに私の医療に携わっている方々に次の要望を宣言いたします。

 この宣言書は、私の精神が健全な状態にある時に書いたものであります。

 従って私の精神が健全な状態にある時に私自身が破棄するか、又は撤回する旨の文書を作成しない限り有効であります。

 ①私の傷病が、現在の医学では不治の状態であり、既に死期が迫っていると診断された場合には徒に死期を引き延ばすための延命措置は一切おことわりいたします。

 ②但しこの場合、私の苦痛を和らげる処置は最大限に実施して下さい。そのため、たとえば麻薬などの副作用で死ぬ時期が早まったとしても、一向にかまいません。

 ③私が数ヵ月以上に渉って、いわゆる植物状態に陥った時は、一切の生命維持措置をとりやめて下さい。

 以上、私の宣言による要望を忠実に果たしてくださった方々に深く感謝申し上げるとともに、その方々が私の要望に従って下さった行為一切の責任は私自身にあることを附記いたします。

 日本尊厳死協会の会員は、この宣言によって結ばれている。この宣言書に加筆補筆することは一切認められておらず、ここに書かれている三条件を医師に示して諒解を得ることにとどまっている。だが、現実にはこの宣言書に拘束されるのを嫌う医療機関や医師も多いのだ。

安楽死尊厳死保阪正康著より