バイオエシックス運動(生命倫理運動)の意義とは


 アメリカの人権運動はむろん医療の中にももちこまれた。それが医療の質を求めるという運動だったが、具体的には、医師が患者に対して何の説明もしないで医師だけの判断によって医療を進めるという、いわば医師主導の医療に対する批判という意味合いをもった。「ヒポクラテスの誓い」でいう医師の態度も独善的であるとして見直しが始まったのである。

 京大名誉教授の星野一正の指摘によれば、「独善的な医師に一段高いところから管理され服従させられている弱者である」(『医療の倫理』)という認識を土台にした医療の独善性を排する動きとして始まったという。

 アメリカでは、このような運動を「バイオエシックス運動(生命倫理運動)」と称した。

 この運動は二つの面を突出させた。患者の側からは、自分の死の迎え方は自分で決めよう、それは医師に指図されることではないとの強い要求だ。もうひとつは、医師の側が医学を科学技術の中の一ジャンルに限定するのでなく、生命倫理という大きな枠の中で学際的な研究が始めたことだ。一九七一年(昭和四十六年)にジョージタウン大学に設けられたケネディ倫理研究所はその分野の先端的な研究部門で、ここでは「バイオエシックス百科事典」を編んでいるという。

 バイオエシックスでは、医療内容について、医療システムのほかに生死をめぐる倫理、法律の見直し、健康に関わる環境汚染、医療費の研究をつづける医療経済という分野まで含んでいる。

 アメリカでは、この時代に到達した医療技術を通じて改めて文明観の洗い直しが始まったといえる。この点では、アメリカという国の歴史観を問い直すという姿勢は他国とは比べものにならないほどの意義をもっている。

 インフォームド・コンセントや「死の決定権」、それに尊厳死安楽死はこういう土壌の中で主張され、実践されている。岩盤は深いのである。

 アメリカのこうした歴史的試みは、他国に先がけてさらに発展をつづけている。ときに極端に走るケースもあり、それをまた徹底して論じて社会的コンセンサスの枠内に戻すという試みも行なわれる。ミシガン州の医師のように、自殺装置をつくって、それを安楽死希望者に利用させるというのは自殺幇助ではないかと思われるが(実際にアメリカ国内でも嘱託殺人と糾弾する声も多い)、このような首をかしげるケースもでてくる。だがそれを一定の枠内に戻そうと、この医師と論争を試みる医師も多いのだ。

 ホスピスが日本で急にもてはやされたのは、昭和五十年以後のことだ。

 欧米ではこの末期ケアは、中世からの伝統に根づいていて、バイオエシックスのもとで患者がより安寧の心境で、その人格が死の瞬間まで尊重されるシステムとして機能している。だが日本はまだ試行錯誤の中にある。厚生省も医療機関がホスピス病棟をもつのを認めるなど、ハード面は整備されたが、ソフト面はそれについていけない。一般の医師や看護婦は、死が近い患者を看取ることに関心を示さない。緊張が要求されるし、治療にも神経を使う。そのために神経科医、宗教的使命感をもつ医師に依存することになる。

 欧米では、患者の家族やボランティアがホスピスケアを手伝っている。ところが日本では、完全看護の名のもとに患者の家族を病院からしめだす傾向があるというし、欧米でぱ慈善団体の寄附によって運営が行なわれているが、日本はホスピス病棟も独白に運営資金を捻出しなければならない。

 ホスピス病棟では、延命のための積極的な治療ぱ本来行なわない。だが日本は医療保険制度が完備していることもあって、延命の医療が安易に行なわれる。死を受容する姿勢に違いがあるからだ。

 こうした現象を捉えて、欧米が理想的で、日本は小手先にすぎるというのではない。日本ではまだバイオエシックスの思想が確立していないうえに、「死」についての考えが旧来型の理念のもとで諒解されているためにかたちが定まらないのである。