劣性遺伝病はヒトにとって「有害」か


 鎌状赤血球貧血症が重篤な遺伝病にもかかわらず、その原囚遺伝子がマラリア汚染地域に暮らす人々の間で高頻度に見られるのは、それがマラリアからヒトを守るからだ。原因遺伝子を一つだけもっだ人間が生き残り子孫を残すために、必然的に集団での遺伝子頻度が高くなる。アフリアの圧力によってヒトの遺伝子が選択されている例といえるだろう。

 アフリアと遺伝病の関係とよく似た話はほかにもいくつかある。

 G6PD(グルコース6リン酸脱水素酵素)欠損症は、G6PDという赤血球内にある酵素を正常につくれないことで起こる病気である。この酵素赤血球ブドウ糖からエネルギーをとり出す過程で重要な働きをし、また赤血球が酸化されるのを防いでいる。G6PD欠損症では異常酵素によって赤血球が酸化され、重症の場合は破壊されてしまう。ただし、この原因遺伝子を一つもった赤血球内では、熱帯熱マラリア原虫は増殖できない。世界では一億人以上がG6PDの異常遺伝子を持っているとされ、とくにアフリカ、地中海沿岸、東南アジアなどマラリア諸国に多い。

 また、β(べー夕)サラセミア症は鎌状赤血球と似て、ヘモグロビンの異常からくる貧血症だ。βサラセミアは世界の広い地域で見られる遺伝病だが、とくに地中海沿岸で猛威を振るっている。しかし、この遺伝子もやはりヒトにマラリア抵抗性を与えている。

 以上の三疾患の原因遺伝子は、赤血球内での原虫の増殖を阻害することで抵抗するが、マラリア赤血球内への侵入を阻止することで「抵抗」する遺伝子もある。マラリア赤血球に侵入するためには、赤血球の細胞膜の表面にある受容体にくっつく必要がある。これは鍵と鍵穴の関係みたいなもので、マラリアがもつ鍵はふつう難なく赤血球のドアを開けてしまう。ドアの鍵穴はダフィ抗原と呼ばれるもので、これをつくる遺伝子の変異は鍵穴を変形することで三日熱マラリア原虫を門前払いする。ダフィ抗原欠乏症の遺伝子保有者はモンゴロイドには存在せず、対して西アフリカでは九割に達するとされる。

 さて、ここまでの話から、鎌状赤血球貧血症などの遺伝病をもたらす変異遺伝子がはたしてヒトにとって有害な存在といえるかどうか。確かに、病気自体はヒトを死に至らしめる危険性が高いとても有害なものだ。しかし、遺伝子はどうか。変異遺伝子は二つそろった場合には病気を引き起こすが、一つだけなら逆にヒトに“生”を保証する。いったい変異遺伝子をどのように考えればよいのか。

 劣性遺伝病遺伝子が有害かどうかという判断は、その人間がどこで暮らしているかによっても変わってくるだろう。現在アメリカに住む黒人では、およそ九%が鎌状赤血球貧血症の遺伝子をもっているといわれる。彼らにとってはこの遺伝子は有害でしかない。アメリカで暮らしているうちは、マラリアに感染する危険は、日本人がマラリアに感染する率と同程度しかないからだ。九%というのは年々減少してきた結果の数字で、これからもますます減っていくだろう。アメリカではこの遺伝子の保有者でなくとも健康に生きていけるので、集団のなかで非保有者の割合が増えていくからだ。

 しかし一方で、ヒトの集団の中にマラリアに抵抗することができる遺伝子をもつ人聞かいるという事実は、ヒトという種にとっては非常に重要なことだ。ヒト集団がこの遺伝子をもっているおかげで、マラリアが個人には恐ろしい病気でも、ヒトという種にはそれほど脅威ではない。どれほどのメンバーが倒れても、一定の数のメンバーは必ず生き残り、また繁栄する可能性がある。