村上春樹の翻訳の欠点

                          
柴田 もう一つうかがいたいことがあるのですが、これは失礼な質問かもしれませんが、僕が人から聞かれていちばんおもしろいと思った質問なのでうかがうのですが、ご自分の翻訳のいちばんの欠点はどこだと思いますか。
村上 語学力です(笑)。
柴田 そんな、身も蓋もないことを言わないでください(笑)。
村上 まあ少しずつ実戦的に上達しているとは思うんだけど、僕は英語を専門に勉強した人間ではなくて、社会に出てからほとんど自力でごりごりと英語を身につけた人間なので、やっぱり正統的な学問としての英語力は不足していますよね。それは柴田さんなんかと話していると、感じます。いろんなところで基礎知識がボコッと抜けていることがあるんですよね。欠落部分というか。楽器で言うと、運指法が正確じゃないみたいなところがある。少しずつその欠落部分を埋めながらやっているんですけど。あとは、不注意。そうは見えないかもしれないけど、本当に不注意でね、センテンスをボコッと抜かしちゃったりね。
柴田 数字をよくまちがえられますよね。百年違ってるとか。
村上 お恥ずかしいです(笑)。
質問者F 『アメリカン・サイコ』を訳された小川高義先生がある小説を訳していて、この小説は日本の誰それの文体で訳すといいんじゃないかと思ったというようなことをおっしゃっていましたが、そういう誘惑をお感じになったことはありますか。この作家は日本ならこういう人だからこの文体で訳してみようかなとか。
村上 いや、それはないですね。僕にはそこまでできないね。つまるところ自分の文体しかないから。別の人の文体を使って訳すというのは、僕にはできないですね。
 文体ということで言うと、これはすごく漠然とした表現になるんですけど、いわゆる「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」というやつで、翻訳をする場合、とにかく自分というものを捨てて訳すわけですよ。ところが、自分というのはどうしたって捨てられないんです。だから徹底的に捨てようと思って、それでなおかつ残っているぐらいが、文体としてはちょうどいい感じになるんだね。最初から自分の文体で訳してやろうと思うと、これはちょっとしつこい訳になっちゃう。自分は全部捨てようと思って、捨てきれないで残った部分の上澄みだけでもう十分です。だから、ごく少数の例外を別にすれば、文体のことは考える必要なんてほとんどないんですよ、実は。テキストの文章の響きに耳を澄ませれば、訳文のあり方というのは自然に決まってくるものだと、僕は考えています。


 さっきも言ったように、皆さんは自分の文体というものを、意識的にせよ無意識的に持っていますし、それは捨てようと思って簡単に捨てられるものじゃないんですよね。だから、小川さんの言っていることは、僕は読んでいないので、どういうことなのか詳しくはわからないんですけれど、小川さんみたいなプロはともかく、初心者はあんまりそういうことは考える必要はないんじゃないかなという気はします。なんでもそうだけど仕掛けに溺れると、全体の流れを見失うことって多いです。
 とにかく相手のテキストのリズムというか、雰囲気というか、温度というか、そういうものを少しでも自分のなかに入れて、それを正確に置き換えようという気持ちがあれば、自分の文体というのはそこに自然にしみ込んでいくものなんですよね。自然さがいちばん大事だと思う。だから、翻訳で自己表現しようというふうに思ってやっている人がいれば、それは僕は聞違いだと思う。結果的に自己表現になるかもしれないけれど、翻訳というのは自己表現じゃあないです。自己表現をやりたいなら小説を書けばいいと思う。
質問者G 翻訳も小説もエッセイも数多く書いていらっしゃいますけれど、書くときは、それを絶対に書かなければいけないという切迫感みたいものがあって、書いているんですか。それとも、書かなくてもいいけれども書いているんですか(笑)。
村上 あのね、小説に関しては切迫感はありますよね。「今これをこのように書く」という厳然とした必然性がなければ、小説って書けないです。少なくとも僕の場合はそうです。来月までに何枚書いてくださいね、と言われてすらすら書けるものではないです。だから僕は注文に応じて小説を書くというのは、原則的にやってないんです。昔から一貫して。
 ただ、エッセイに関しては、けっこういいかげんにはいはいと書いている場合かおりますね。書かなくてもいいけど……という場合もあるかもしれない。翻訳はもう年がら年じゅうしこしことやっています。時間があいたら翻訳をする、という感じで。翻訳ってまとめてわおっと一挙にはやれないですよね。ちょっとずっしかできない。だからそういうやり方が合っているんだと思うけど。翻訳者の斎藤英治君は「翻訳は三百六十五歩のマーチだ」という名言を残しだけど、あの人の場合はどっちかというと「三百六十六歩」ぐらいですよね。
柴田 ちょっとすみません。みんなよく知らないんだと思います、水前寺清子を(笑)。
村上 だから、僕は自分の小説に関してはかなり集中します。でもたとえば『ねじまき鳥クロニクル』みたいな長いものを書いているときは、一種の放心状態になっちゃうから、三ヵ月続けて書くとそのあとしばらく休養をとるわけです。休んでいる間は、こつこつと翻訳をやっていることが多いですね。手仕事みたいな感じで。それで自分の中で消耗されたものを埋めていく。それで消耗が埋められて気力が出てくると、またそこで小説にかかることになります。「雨の日の露天風呂」というシステムがありまして、雨の日に露天風呂に入る。長くお湯に入っていて体が温まってくると、お湯から出るじゃない。出て外で雨に打たれていると、だんだん冷えてくるじゃない。

『翻訳夜話』 村上春樹