「だ」「のだ」の用法について

助動詞「だ」は、ちょうど論理学で言う、コプラの役をする語である。森有正がその使い方をとらえて、「日本語には文法がない」と言って、話題になったことがあった。

 森によると、「だ」は、フランス語の動詞とちがい、主語の人称によって変化せず、逆に主語の人称が同じ場合に、「だ」となったり、「である」となったり、あるいは「です」となったり、「でございます」となったり、不定である。だから、文法的ではない、と言うのである。

 しかし、これはずいぶん一方的な見方である。言語というものは、なにも主語の人称によって動詞が形を変えなければならないものでもないし、「だ」や「です」は、「話の相手が誰であるか」というような、ちがった原理にしたがって形を変えているのである。

 ここでは、日本語に「だ」という単語があることが、実に論理学の世界では日本語が非常にすぐれた言語であることを証しているという、佐久間鼎の説を紹介したい。

 何よりこの「だ」は、どういう意味の語か。この「だ」の意味については、以前から「断定を表わす」蒔枝誠記)とか「肯定を表わす」(中島文雄)とかいう考えが出ている。が、ちがう。

  それは、山だ。

という、そこでとめる形になった時には、たしかに断定の意味が生じるが、そういう意味が生じるのは、「だ」に限らない。「行く。」といっても、「来る。」といっても、そこで言い切れば、断定の意味が出る。また、肯定の意味というのは、「山ではない」のような「―はない」という言い方を次につけないということから生じるので、もし、「山だ」が肯定を表わすならば、

 「行く」でも「来る」でも肯定の意味を表わすことになる。

  「だ」「である」の標準的な意味は次の四つである。

 1 そのものとイコールの関係にあることを表わす。

  富士山は日本の高山である  レーガンは現在のアメリカの大統領だ

 2 そのものの一員である、つまりそのものに属することを表わす。

  鯨は哺乳動物である  私は日本人だ

 3 そういう属性をもっていることを表わす。

  タバコは健康に有害である  あの人は親切だ

 4 そういう状態にあることを表わす。

  風もなくうららかな日和である  この部屋は静かだ

 英語ではこの「だ」の意味を表わすのに、rという基本形をもつ語で表わすが、これはもともと存在を表わす動詞で、それの兼用である。ヨーロッパの言語は大体それが多い。一方、中国では「是」という指示代名詞に兼用させている。日本語の

 「だ」は「である」がもとであり、ヨーロッパ語に近いが、「ある」だけでは存在の動詞、「だ」はちがった形をもつれっきとした別の単語になっているのは注目すべきである。

 日本語には別に「は」という題目を表わす助詞があり、これは論理学の主語を表わすぴったりのしるしである。そうしてこのコプラを専門に表わす助動詞「だ」をもっている点を佐久間は買って、日本語は論理学をするのに究竟な言語だと評価したのだった。この、コプラ専門の単語をもっていることでは、スペイン語が、先の「だ」の意味の1から3までを表わすserという単語をもっていることが注意される。日本語と並んで論理学に向く言語ということになろうか。

 外国語のうちには、古代インドーヨーロッパ諳語では、コプラのない形が多く用いられ

 (ヴァンドリエス『言語学概論』)、ロシア語では現在でも、現在形ではコプラを使わない。女流宇宙飛行士のテレシコワがYa chaika. (私、カモメ)と言ったのは有名になった。

 日本語でも、

  この道はいつか来た道
  からたちは畑の垣根よ

のように「だ」を言わないこともある。が、「言わないこともある」というだけで、言いたい時にはっきり「だ」「である」が付けられることは注意すべきだ。

 

 この「だ」の品詞は学校文法では「助動詞」としており、この名前は不適当であるが、慣用に従っておくと、助動詞には、ほかに「らしい」「ようだ」「だろう」が加わり、あるいは有坂秀世に従って「勉強する」「運動する」などの「する」、さらに終助詞とされる「か」を三上章に従って、加えてもいいかもしれない。「だ」に戻るが、日本語の「だ」の用法で注目されるのは、次のような簡潔な表現ができることである。

  雨だ!

 これは「雨が降って来た!」と同じ意味を表わすもので、「が降って来た」と長くいうのを「雨」と言えば次に「が降って来た」と続くだろうと相手は理解できると察し、「だ」に置きかえたものだ。古くはこの形は「あれは雨だ」の「あれは」が略されたものだなどと考えられていたが、三尾砂が、「雨だ」に二種類あり、「あれは雨だ」の「雨だ」の部分が残ったものと、「雨が降って来た」を簡潔に「雨だ」と表現したものとあると説いたのは卓見だった。

     「だ」に関連して、日本には「のだ(んだ)」という表現がある。丁寧体ならば「のです(んです)」となる。この語法は三上章が『現代語法序説』に取り上げるまでは、日本の学者で考慮する人がほとんどいなかった。しかし、日本人にとっては、

  あの子は寂しいんだ  ぼくは知らなかったのです

など、日常ごく普通の語法で、日本語では重要な役割をつとめる。三上は、「のだ」の使用頻度は、英語にもっていったら、have+過去分詞に匹敵するかもしれないと言う。彼のつとめている学校で、終戦直後アメリカ女性を招かされて講演を聞かされたことがあった。彼女は小一時間、かなり達者な日本語の講演をやったそうであるが、その回一度もノダ式の言い方をしなかったという。外国人には、「のだ」の意味と使い方はわかりにくいものらしい。この意味で、オーストラリア在住の日本語学者A・アルフォンゾが『日本語基礎コース』の中で、「のだ」の意味を詳しく考察しているのには頭が下がる。


 根拠・事実 「のだ」は、「のである」といっても意味は同じであるが、典型的な用法は次のようなものである。

  道で出会う老幼は、みな輿を避けてひざまずく。輿の中では、閭がひどくいい心持になっている。牧民の職にいて賢者を礼するというのが、てがらのように思われて、閭に満足を与えるのである。(森鴎外寒山拾得』)正道はひどくあわれに思った。そのうち女のつぶやいていることばが、次第に耳に慣れて聞き分けられてきた。それと同時に正道はおこり病みのように身内がふるって、目には涙がわいて来た。女はこういうことばをくり返してつぶやいていたのである。(同『山椒大夫』)

 これは、その前に叙述したことの根拠を述べた表現である。最初の例で言うと、閭がひどくいい気持になっているのは、「牧民の職にいて……閭に満足を与える」ためだという説明で、次のように順序を引っくり返していうこともできる。

  牧民の職にいて……閭に満足を与えるので、輿の中では、……いい心持になっている。

 日本人の表現では、あることを述べようとする時に、その根拠だけ述べて、結論を相手に察しさせようとすることを好む。そのことから「のだ」「のです」が好まれるので、さっきの

 「あの子は寂しいんだ」は、「あの子は寂しいので口をきかない」の意であり、「ぼくは知らなかったのです」は、「ぼくは知らなかったので、先生にお辞儀をしませんでした」という意味である。

 さらに「のだ」は「それが事実(真実)だ」という意味をもっているところから、派生的にいろいろの意味をもってくる。

  何と言っても、おれはやりぬくのだ (決意)

  おい、どうした、起きるのだ    (督促)

 これらは主観表現に転じているので、語形変化をしない。

『日本語』 金田一春彦